人生で学ぶことの意味はどこにあるのか。明治大学文学部教授の諸富祥彦さんは「50代からは最後まで精いっぱい学び、遊び尽くすべきだ。死ぬということは、『迷い道から抜け出る』ことなんだと少しだけわかりながら、日々を迷いながら生きるのが、『学ぶことの意味』である」という――。
※本稿は、諸富祥彦『50代からは3年単位で生きなさい』(河出書房新社)の一部を再編集したものです。
「3年後の死」の覚悟すると、死に向かい体が駆け上っていくのを体感
「たとえ、あと3年で死んだとしても、悔いのないように日々を生きよ」
これが本書の基本的なメッセージです。
「あと3年」というのは、本当に短い時間です。「3年後の死」をリアルに実感し、覚悟しながら日々を送り始めると、身体感覚に変容が生じ始めます。
自分の体が「死」に向かっていく。「無」に向かっていく。それを日々体感します。「死」に向かい、「無」に向かって、自分の体が駆け上っていくのが体感されてくるのです。
すると、生と死の間の「境界」が溶解し始めます。「生の向こうに死がある」という感覚はほぼ消えて、「自分はすでに死の中にいる」、そして「死の中にほんのり、儚く生が混じり入っている」。
その儚き生を生きている。人生後半を生きている人の多くが死をごまかさずに生きているならばそんな実感を持っているのではないでしょうか。
このように、私自身も年齢を重ねるにしたがって死ぬということについての感じ方は、変わってきました。ある極限状態に追い込まれて、死ぬ直前までいったこともあります。
くわしくは『人生に意味はあるか』(講談社現代新書)という本に書きましたが、ギリギリのところまで追い込まれたのです。
そのギリギリの体験で私が体験したのは、「立脚点の変更」の体験でした。一言で言うならば、「いのちが、私している」見えない、いのちの働きが、たまたまこの時、この世では、縁あって“私”という形を取っているということをリアルに実感する体験でした。少し説明しましょう。