プロ選手としての使命
スポーツの世界では結果が重要視されるが、スポーツメーカーと契約した選手はPR力も求められる。ではメーカー側から考えた田中の“価値”はどうなのか。
田中は東京五輪の1500mで8位入賞を果たしているように、日本人選手のなかで世界トップに最も近い中長距離選手といえる。しかし、世界大会は日本代表のユニフォーム(アシックス)を着用するため、NBのロゴが全面に出ることはない(スパイクもテレビで大きく映る機会がほとんどない)。さらに今後は実業団駅伝に出場することはなく、田中の特性を考えると、マラソンまで距離を伸ばして活躍するのは簡単ではないだろう。
田中の存在は現状、市民ランナーに届くほどの訴求力はないかもしれない。しかし、田中のキャラクターは魅力十分。世界選手権に3種目で出場できるようなマルチな能力があり、父娘で世界を目指すストーリーも日本人受けする。今後、世界大会でメダル獲得ともなれば、ニューバランスにとって大きなPRになるのは間違いない。
「世界のトップで戦いたい、というのが一番の目標です。その目標に向かって努力するなかで、いろんな方に影響を与えていきたいですし、陸上界だけでなく、よりたくさんの方の目に留まるような選手になっていきたいなと思ってます」
そう話していた田中は、プロ転向表明直後の4月8日、金栗記念選抜陸上中長距離大会で初レースを迎えた。
メイン種目となる1500mに出場すると、序盤からペースメーカーの後ろにつき、積極的なレースを展開した。しかし、残り200mで、後藤夢(ユニクロ)に抜かされ、4分20秒11の2位という結果に終わった。
「全然良くなかったかなと思います。何で走れなかったのか自分でも全然わからなくて……。自分の走りの発揮の仕方がわからない部分が大きいので、そこをまず思い出すところが課題です」
プロ第一戦目の重圧があったかもしれないが、厳しいスタートになってしまった田中。今夏はブダペスト世界陸上、来夏はパリ五輪、再来年夏は東京世界陸上が控えている。そのなかで“日本のハッサン”(2021年の東京五輪で3つのメダルを獲得したオランダの女子中長距離選手)はどんな進化を遂げるのか。
筆者としては今回のプロ化には賛成だ。実業団選手は中途半端だと感じているからだ。実業団選手は社業の大半が免除され、陸上で結果が出なくても、収入は得られる。一方、「走る」ことが、貧困から抜け出す唯一ともいえる手段になっているケニアやエチオピアの選手と互角に渡り合うには、田中の言う通り「ハングリー精神」がないと難しいだろう。あえて厳しい環境を選んだ田中希実が、さらに強くなっていくことを期待せずにはいられない。