「港東ムース」初の全国大会
克則たちにとって、中学時代最後の夏がやってきた。
関東大会を勝ち抜いた港東ムースは、「第16回日本リトルシニア野球全日本選手権」に駒を進めた。この大会は北海道、東北、関東、信越、関西、九州の各連盟に、発足したばかりの東海連盟を加えた7連盟に所属する304チームの激しい戦いを制した24チームがトーナメント方式で戦い、日本一を決めるものだった。
野村克也率いる港東ムースは関東連盟代表として、初の全国大会に出場することになった。朝日学生新聞社が発行する「朝日中学生ウイークリー」(88年8月28日付)にはこんな記述がある。
各方面からの注目を浴びて臨んだ大会だった。港東ムースは初戦の旭川中央(北海道連盟)に4対1で勝利した。しかし、続く仙台東部(東北連盟)に惜敗する。再び、前掲紙から引用したい。
選手の前で「私の采配ミスだ。申し訳ない」
この記事にあるように、仙台東部との一戦は試合序盤のリードを守れず、野村監督率いる港東ムースは4対6で逆転負けを喫した。克則がこの試合を振り返る。
「1試合目に勝って、2試合目に島田(博司)っていう左ピッチャーを投げさせたんです。途中まで勝っていたんだけど、仙台東部の四番バッターのスズキシノブって選手に逆転ホームラン打たれたんですよ。……僕の記憶力、すごいでしょ(笑)」
克則はさらに続ける。
「相手が押せ押せになってきて、たぶん監督もちょっと迷ってたと思うんですけど、次の試合のことも考えちゃったみたいなんです。“ここを乗り切れば”って思ったときにガーンって逆転弾を喰らって……。後に監督も、投手起用についてすごく悔やんでいましたね……」
稲坂祐史は試合後のミーティングについて、ハッキリと記憶していた。
「野村監督はみんなの前で、“私の采配ミスだ。申し訳ない”って言っていました。投手起用でエースを温存したことを謝っていました。監督も、“もっといける”って自信があったと思うんです。実力的にはうちの方が上だったんで、それは悔しかったんじゃないですか。だって勝負師ですから。僕らも、まさか、負けるとは思っていなくて……。でも、やっぱり油断したら負けますよ。自分たちにもそういう気持ちがあったから、負けてしまったんだと今なら思えるんです」