2020年に亡くなった元プロ野球選手の野村克也さんは、現役引退から8年後の1988年に「港東ムース」という少年野球チームを創設している。同年には全国大会に出場しているが、二回戦で負けてしまう。そのとき野村監督は選手たちに「私の采配ミスだ。申し訳ない」と謝罪したという。長谷川晶一さんの著書『名将前夜』(KADOKAWA)より、一部をお届けしよう――。
野村克也氏(右)、左は沙知代夫人
写真=時事通信フォト
ヤクルト優勝の試合を観戦する元ヤクルト監督の野村克也氏(右)。左は沙知代夫人=2015年10月2日、神宮球場

「プロ野球の原点は、少年野球にあり」

後に野村は「プロ野球の原点は、少年野球にあり」と語っている。野村の没後に発売された『野村克也全語録 語り継がれる人生哲学』(プレジデント社)から引用したい。

わたし自身にコーチの経験はないが、1年8カ月(※)の少年野球の指導者経験は、監督業に大いに役立った。なぜかといえば、「間違えられない」からである。

子どもたちは純粋だから、「元プロ野球選手に教わるのだから間違いない」と頭から信じ切っている。大人はいろいろな情報が頭に詰め込まれていて、自分の考えと異なるとすぐに理屈をこねる。

その点、子どもは疑うことを知らない。だから教えるわたしのほうは正しい努力になるように細心の注意を払ったし、そのためにたくさんの勉強をした。元プロ野球選手というプライドも捨てて、真摯しんしに教えることを心掛けたのである。

※編註:編集部にて修正。

グラウンドや練習場の使用料は野村が負担

それまでは全国を飛び回っていた講演活動もセーブするようにした。毎週、火曜、木曜は神宮室内練習場に顔を出し、週末の土曜、日曜は多摩川グラウンドを中心に試合を行った。

チームとしては月謝として3000円を徴収していた。多摩川グラウンド、神宮球場の室内練習場、それぞれの使用料は野村が負担していた。

自身は何も報酬を得ることはなかった。野村にとっては「野球界への恩返し」という意味合いもあった。この頃、野村は少年たちにこんなことを言っていたという。

「オレは野球でいい思いをしたから、野球に恩返しをしたいんだ」