“銀河系軍団”のガチなアメリカに逆転勝ちして世界一を奪還した侍ジャパン。日本列島は今なお沸騰しているが、スポーツライターの相沢光一さんは「60年近く日米野球を見てきた者として、今回の優勝と大谷翔平の『憧れるのはやめましょう』という発言に、感動とは別の感慨を抱いた」という――。
米国を下して優勝を決め、喜ぶ大谷(=2023年3月21日、アメリカ・フロリダ州マイアミ)
写真=AFP/時事通信フォト
米国を下して優勝を決め、喜ぶ大谷(=2023年3月21日、アメリカ・フロリダ州マイアミ)

“銀河系軍団”のガチなアメリカに逆転勝ちで世界一

「本気で勝ちにきているアメリカと世界一を争う真剣勝負の場で日本が勝つ日がきた」

第5回WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)でアメリカに勝って世界一になった侍ジャパン。この快挙に日本列島は今なお歓喜に湧いているが、60年近く野球を観てきた初老のライターにとっては感動とは別の感慨があった。

30年ほど前まで、日本の野球は国内で完結するスポーツだった。最高峰に位置するNPBのチームも選手も目指すはリーグ優勝とその先にある日本シリーズに勝つこと。アマチュアの社会人、学生野球も全国大会で優勝し日本一になることが最大の目標だった。世界一になりたいという者はいなかった。

もちろん世界最高峰の米MLBは野球ファンの誰もが知っていたが、別世界のことのように思っていた。

交流はあった。たとえば親善目的で行われた日米野球。よく知られているのが戦前の1934年(昭和9年)に来たアメリカ選抜チームでベーブ・ルースやルー・ゲーリックといった大スターがプレーし、16勝0敗と圧倒して帰っていった。

戦後も1949年から、ほぼ2年おきにアメリカ選抜やメジャーのチームが来日して、NPBのチームと試合をした。その成績を日本側から見ると、1949年は0勝7敗、1951年は1勝13敗2分、1953年は1勝12敗1分と、まったく歯が立たなかった。同じプロ野球でありながら、フルボッコの状態だったのだ。1960年代から一方的な試合は少なくなり勝利も増えたが、それでも1949~1988年までの20回の日米野球をトータルすると、279戦して63勝196敗20分という散々な成績だ。(90年代以降は28勝43敗8分)

日米野球のほとんどはシーズン後の秋に行われた。長いシーズンを戦った後、観光がてら来日したアメリカのチームにNPBのチームは負けてばかりいたのだ。この頃の日米の実力差は相当のものがあったといえる。

そんなMLBでもプレーした日本選手はいた。日本人メジャー第1号の村上雅則投手だ。南海ホークスに入団して2年目の村上は将来性を買われ、アメリカに野球留学することになった。マイナーリーグの1Aで左の抑えとして好投したことが目に留まり、サンフランシスコ・ジャイアンツと契約。1964年と65年の2シーズン、メジャーでプレーした。

成績を見ると、54試合に登板して5勝1敗9セーブ、防御率3.43。堂々たる成績だが、メジャーに昇格した1964年は1回目の東京オリンピックと重なったせいで、日本ではさほど注目されなかった。野球留学させた南海もメジャーでプレーさせる気はさらさらなく、すぐに日本に連れ戻した。日本で戦力になってもらう方が大事で、MLBでプレーする価値に関心がなかったことがうかがえる。

1977年にはレン・サカタという日系三世の内野手がミルウォーキー・ブルワーズにドラフト指名され、メジャーデビューしたことが話題になった。今回のWBCでは日系2世のラーズ・ヌートバー外野手が日本のリードオフマンとして大活躍して人気者になったが、当時は“日系人”がメジャーリーガーになっただけで日本のメディアやファンは喜んでいた。それほどメジャーは遠い場所だったのだ。