ターニングポイントは1995年にLA入団の野茂英雄

その一方で、アメリカからNPBに来てプレーする選手はいて、助っ人外国人と呼ばれた。“レベルの高いアメリカからやってきたチームを助けてくれる選手”という意味であり、ほとんどが主軸を務めた。そんな選手でもメジャーのレギュラークラスは少なく、たまにレギュラーとして実績を積んだ選手が来ると、それだけで注目された。

1987年にヤクルトに入団したボブ・ホーナーがその代表格だ。日本では野球関係者もメディアもファンも、メジャーを雲の上の場所と思っていた証拠だ。

日本の野球選手に世界一を目指す選手がいない時代が続いていたと書いたが、アマチュアには世界大会があった。1938年から2011年まで開催されたIBAF(世界野球連盟)ワールドカップだ。

この大会で日本は1度優勝(1980年)、3位に5回なっているが、さほど話題にはならなかった。“真の野球世界一決定戦”と見られていなかったからだ。アマチュア対象(1998年大会からプロ解禁)だったことと、本来なら一番強いはずのアメリカが真剣に覇権を狙ってこなかったためだ。

このワールドカップで強さを発揮したのはキューバで、39回を数える大会で25回優勝。アメリカの優勝は4回に過ぎない。アメリカとしては“野球の世界最高峰リーグはMLB。そこを勝ち抜いた2チームで争うワールドシリーズの優勝チームが世界最強。アマチュアのワールドカップの優勝などどうでもいい”といった意識があるわけだ。

サッカーは世界に強豪がひしめき、FIFAワールドカップで最強国を決めるという図式がある。が、野球の場合はアメリカという揺るぎない1強があり、どこも追いつけないという意識が世界に、もちろん日本にも定着していたのだ。

ところが、そこに風穴を開ける選手が現れた。野茂英雄投手だ。

日章旗と星条旗
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野茂は30年近く前の1995年にロサンゼルス・ドジャースに入団しメジャー挑戦のスタートを切った。この時、日本のファンは「野茂は確かに日本を代表する好投手だが、果たしてメジャーで通用するのか」という目でプレーを見ていた。

しかし、野茂はそんな疑念をことごとく覆す活躍を見せる。メジャー1年目は13勝をあげ、最多奪三振のタイトルも獲得。2年目には16勝しノーヒットノーランまでやってのけた。この活躍に勇気を得た日本人投手が次々とメジャーに挑戦するようになった。

しかし、この時点でも通用したのは投手だからであって、対応力が必要な野手(打者)は厳しいのではないか、という声も根強かった。それを2001年にメジャー挑戦をしたイチローが覆した。

こうした偉大な先人たちの活躍によって、メジャーは雲の上の場所という意識は薄れていく。ただ、彼らが活躍できるのは個々の能力や努力のたまものであって、野球全体のレベルはまだまだ差があるという意識は拭い去れなかった。