日本社会にはどんな問題点があるのだろうか。思想家の内田樹さんは「日本人は過緊張だ。常に格付けや査定に備えて、低いスコアをつけられて排除されるリスクに怯えている」という。ウスビ・サコさん、稲賀繁美さんとの鼎談をお届けしよう――。

※本稿は、内田樹/ウスビ・サコ著『君たちのための自由論 ゲリラ的な学びのすすめ』(中公新書ラクレ)の一部を再編集したものです。

図書館の棚から本を取る人の手
写真=iStock.com/demaerre
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大学のパンフレットから消えた「複眼的」「学際的」

【内田】最近よく聞く言葉に「深掘り」というのがあります。僕はこの言葉をジャーナリストや学者の口から聞くたびに、微妙な違和感を抱きます。もともと日本語にそんな言葉はないのに、最近みんな実によく口にする。たぶん、それがとても上質な知的作業だという思いがするからでしょう。

ひとつの論件の本質は地中深くに埋められていて、石油や温泉をボーリングするように、「ここ」と掘るところを決めて、そこに垂直にドリルを立てていけば、やがて本質的な情報や知見を掘り出すことができる……そういうイメージを僕はこの言葉から感じるのです。もちろん、「ここ一点」を決めて、そこに垂直に掘り下げることも必要ですけれども、それだけでは足りない。

かつては「複眼的」という言葉がよく使われました。「学際的」というのもよく目にしました。ひとつの問題を多面的に捉え、複数の立場から立体視していくことが特に高等教育ではつよく推奨されていた。でも、いつの間にか「複眼的」や「学際的」といった言葉は大学のパンフレットから消えた。

限定的で深い知識や技能が優先課題になった

その代わりに、なるべく早くに専門を決定して、その専門分野について限定的だけれど深い知識や技能を身につけていくことが大学教育での優先課題になった。それは「オタク」文化への高い評価についても感じます。

きわめて狭い分野について異常なほどトリヴィアルな情報を持っている人間に今の若い人たちはどうも素朴な敬意を感じているらしい。だから、そういう「狭くて深い知」を自分も身につけなければならないと思っている。そういう価値観の変化と学生たちの無表情の間には何か因果関係があるような気がします。

僕としては、彼らにもっと複雑な人間になってほしいんです。こちらの投げかけに対して、学生が100人いれば100通りのリアクションがあってもいいはずなのに、みんな隣の人を見て、調整し合って、マジョリティの中に紛れ込み、とにかく目立たないようにしている。