フランスの教育は、隣といかに違うかで評価される
当時はまだ若かったので多少無茶もできまして、医学部の先生と一緒にセミナーを手がけたり、共通授業を行ってその後個々のセミナーに導くといった実験もしました。
そうした経験があるので、国際文化学部の責任者として呼んでいただいた際の面接でも、明らかに通らなそうな夢を偉そうに語ったのですが(笑)、当時のサコ学長に「じゃあ、お前をとる」と言われて、本当に着任してしまいました。そういうわけで、学部教職につくのは四半世紀ぶりですが、日本の常識に囚われない教育をしたいと夢見ております。
内田先生がおっしゃったように、日本人はやはり周囲から目立ちたくないというのが強いですね。その傾向は中学生ぐらいから出てきて、高校生になると、目立つ生徒さんはみんなの進路の邪魔になるというので、排除されてしまう。
私はヨーロッパに滞在経験があるのですが、フランスではまるで逆です。隣の人と同じことをやっても絶対ダメ。作文教育が中心ですから、とにかく隣といかに違うかを採点者にわかるように書かなくてはならない。教育理念の出発点からして違っている。
ウイルスが教えてくれていることに目を向け、考えていく
先ほど、「複雑」というお話も出ましたが、理科系の方たちの言葉に「複雑系」というのがあります。我々は3次元まではなんとか認識できます。3D映画が楽しいのは、自分にコントロールできない世界が目の前に広がるからですし、車の運転というのも人間の認識能力としてはギリギリのところを行っているわけです。
そこからさらに座標軸が増え、時間軸が加速されると、ほぼ制御不能になってしまう。そこをやっているのが「複雑系」なのですが、一方で人生とはもともと複雑系なのだとも思います。
それをとことん単純化した「座標軸の削減」が自然科学を成功に導いたわけですが、そのパラダイムがすでに行き止まりまで来てしまっている。人間を月へ連れていくことまではなんとかできたけれど、火星まで行ってどうするのか、それならロボットを派遣すればいいのではないかという議論も出てくる。科学技術の発展が人類の、いやこの地球上のあらゆる生命体にとっていいことなのかどうか、真剣に考えなくてはいけない時期に来ていると思います。
新型コロナウイルスが我々に教えてくれているのは、そうした現実なのではないでしょうか。ウイルスを撲滅して「なかったことにする」のではなく、むしろウイルスが教えてくれていることに目を向け、考えていく。それも人文学の重要な役割だと思います。