日本における協調性は「あきらめ」に近い

【サコ】スタートからレベルが高すぎて司会が困るような状況です(笑)。今お二人が指摘されたいくつかは、私も内田先生と「自由論」の授業を続けながら若者たちを観察する中で、感じてきたことでもあります。

私が来日した1990年代初頭は、日本は協調性のある社会だと言われていました。でも、私が見てきた限り、日本における協調性は「あきらめ」に近いと思います。人とぶつかりたくない、自分のことを言って目立ちたくないという空気を協調性と呼んでいる。

学生によくあるのは、みんなで何かをしようと話し合っている時は意見が出ないのに、解散すると、必ず2、3人が戻ってきて、「あれはちょっと違うんだよな」と言い合うというパターンです。それならなぜさっき言わなかったの、と聞くと、「空気を読んだんだ」と。「空気」って一体何なんだろうと。そういうことに始まり、本当にいろいろと若者からは吸収しました。

その後、『「これからの世界」を生きる君に伝えたいこと』という本を出版したところ、学生から結構反応が届いたんです。こちらが語ることによって反応してくれるんだ、これは出版してよかったなと思いました。

大学の校舎に入る学生たち
写真=iStock.com/Vladimir Vladimirov
※写真はイメージです

自分と向き合うチャンスを与えなくてはいけない

彼らに対しては、段階を踏んであげる必要があるのではないでしょうか。かつてのようにゼミで最初から活発にしゃべることが期待できない限り、徐々に慣らしていく必要がある。だとしたら、大学もカリキュラムを変えていかなきゃいけない。

そこで京都精華大学では教育改革として、共通の教育、旧教養系の課程を復活させました。実は2021年に始まったカリキュラムでは卒業単位全体の半分近くが「共通教育」なんですよ。

学生たちは、「専門性」とか学問を専門的に研究する、ということの意味自体を把握していないのではないかと思います。なぜ自分が大学生になっているのか、大学で何をしたいのか、自分には人間として何ができるのか、どう成長していきたいのかも漠然としている。

彼らには自分と向き合うチャンスを与えなくてはいけない。そうした中で、「教養」は重要な役割を果たすのではないかと感じています。

お二人はフランスやヨーロッパなど、いくつもの社会を見た上で日本社会を相対化して眺め、おかしいところに気づかれています。そうした観点から今、若者たちにどんなことが期待できるのか、お聞かせいただけますか。