信徒は文鮮明が主宰する世界に閉じ込められる

それは、統一教会が、「地上の神の王国」という、経済と政治と宗教にまたがる閉じた世界観を提供し、その内部に信徒を閉じ込めるところから生まれている。

先の図式で言えば、統一教会が提供するのは、社会集団(仲間の世界)=世界(世界観)という閉じた世界であり、その世界を、再臨のメシア(文鮮明)が主宰している。信徒はそこで、生きる意味と価値を与えられる。よってそこから、抜け出すことができにくくなる。

この閉じた世界は、信徒から、時間とエネルギーと金銭を吸い上げる。信徒がそれを提供しておかしいと思わないのは、そうした貢献は、意味があり、価値があり、「地上の神の王国」を実現させるためである、と信じるからだ。「地上の神の王国」が実現するなら、そうした努力と献身は報われる。「地上の神の王国」は、甲子園やインターハイが大がかりになったようなものなのだ。

光のある方へ、群衆が引きつけられている
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時間とエネルギーと金銭を収奪するメカニズム

統一教会は、大規模で体系的な収奪のメカニズムをこしらえた。とくに日本で。

これは、周到に計画されており、反社会性が高い。カルトの条件にもぴったりあてはまる。それがどんなメカニズムなのか、整理してみよう。

収奪の第一。信徒の時間とエネルギーと金銭をいくらでも提供させる。

なぜ統一教会の信徒は、時間やエネルギーを教団に提供するのか。それは、メシアが到来して、まもなく神の王国が建設される、と信じるからである。

人間は、信仰のため、あるいは自分の信じる価値のため、時間とエネルギーを用いる。それなりの金銭も提供する。当たり前のことである。

統一教会の場合、それが極端である。学校をやめ仕事をやめ、すべての時間とエネルギーを提供することが望ましいとされる。実際にそうする人びとも多い。それは、望ましいだけではなく、義務である。

なぜなら、神の王国は、神が100パーセント自分の手で建てるのではなく、人間の協力と献身も必要だからだ。人間の力が合わさらないと、この世界は完成しない。文鮮明の主要著作『原理講論』の説く神学である。だから時間もエネルギーも金銭も、自分の持てるすべてを投入する。その見返りは、信仰をまっとうしたという満足感だ。

統一教会が信徒に求める信仰と献身は、度を越している。信徒が通常の社会生活を送るのをむずかしくする。家庭や社会にマイナスをもたらす。カルトの定義に、ぴったりあてはまる。収奪なのは明らかだろう。