認知症の患者は、身の回りのものを誰かに盗まれたと訴える「物盗られ妄想」を抱くことがある。理学療法士の川畑智さんは「初期によくある症状のひとつだが、過ちを許してくれる人や信頼している人しか疑われない。周囲の人は、本気で腹を立てたり言い返したりせず、できる限り心に余裕を持って接することが大切だ」という――。

※本稿は、川畑智『さようならがくるまえに 認知症ケアの現場から』(光文社)の一部を再編集したものです。

中年の母親はソファの叱る成長した娘の上に座って、怒っているお母さんはストレス
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認知症の初期症状「物盗られ妄想」

身の回りのものが見つからないとき、誰かに盗られたのではないかと思い込んでしまうことがある。

これは認知症の初期によくある症状の一つで、「物盗られ妄想」という。自分が認知症だと思いたくなかったり、家族に迷惑をかけたくないあまり、自分のものは自分で管理をしなければと頑張ったり、そうした中で、自分がしまった場所を忘れてしまうことが原因で起きてしまう。

認知症でなかったとしても、あるべきところから大切なものがなくなれば、誰しも不安になってしまうに違いない。例えば、出かけている最中に、さっきまであった財布がカバンの中からなくなっていたとしたら? どんな人でも盗まれたと思ってしまうのではないだろうか。認知症の方は、それが日常的に起きやすい状態であるということを覚えておいてほしい。

ある日、フランス在住の平井さんから、SOSのメールが届いた。日本の実家に住んでいる認知症の母と、その介護をしている妹との喧嘩が絶えず心配だ、という相談内容だった。メールによると、妹さんの疲弊がもう限界まできていて、平井さんは見ていられないらしい。そこで、フランスの平井さんと、神戸に住んでいる妹さん、そして熊本にいる私との3人をオンラインでつないで、一度話をすることにした。文面だけでは状況が分からないことがあるのはもちろんのこと、私自身も伝えきれないことがたくさんあるからだ。

認知症の母とのケンカが絶えず、疲弊が限界に…

平井さんからのメールでの前情報では、平井さん一家は貿易商を営んでいるそうだ。平井さんはフランスで商品の買い付けや管理を行い、そして妹さんは経理面で家業をサポートしている。

お母さんは、1年ほど前から認知症を患い、現在では経営の第一線から退いたのだが、それ以来、お母さんの身の回りのことは妹さんが見るようになった。そして今回、妹さんがもう耐えられないとお姉さんに泣きついたのだ。

お母さんは、わざわざ海外から化粧品を取り寄せるくらい化粧が好きで、ドレッサーの前には、日本では決して買うことのできないたくさんの化粧品が並んでいるという。ことあるごとに妹さんはお母さんから、「ファンデーションが見当たらないんやけど、あんた使ったやろ?」とか、「財布のお金、あんた盗ったでしょ」とか、全く身に覚えのない疑いをかけられる。

勝ち気な性格の妹さんは、「お母さんの化粧品なんて使うわけないじゃない! 勘違いしないでよ!」と応戦してしまうものだから、そのたびに喧嘩になってしまい、今では精神的にかなり追い込まれているようだ。