なぜ家康は馬術を好んだか
では家康にそうした戦績、勲章はあるかと考えてみると、ないのですね。
キラリと光るものが家康にはまったくない。秀吉は城攻めが得意とされます。だから彼については「城攻めの秀吉」と評されたりします。いっぽうの家康は野戦が得意とされて、だから「野戦の家康」と呼ばれるのですが、しかしどうもこれが怪しい。
よく見ていくと首をかしげたくなるのです。
家康は実は案外、剣が上手、剣の達人だったという話があって、なかなか腕前がよかった。
それから彼が亡くなるまで一生の楽しみにしていたのが鷹狩り。鷹狩りで体力をつけるという、現代でいえばスポーツの概念が、彼にはあったのですね。
そこらへんまではいいのですが、家康は馬術の練習もとても大切にしていました。なんで熱心に乗馬をやっていたかというと、戦場で瀕死の重傷を負ったときに、愛馬と心を通わせていると、馬が「ご主人様が危ない」と察知して自発的に逃げてくれるのだそうです。
要するに乗馬の技術を磨いておくと、いざ戦いに負けたときに効力があって「ふつうなら討ち取られるところを逃げられる」という大きなメリットがあった。
だから家康は日ごろから乗馬を好んだそうです。
すべては自分が逃げるため
もうひとつ、これも家康が死ぬまで鍛錬していたのが水泳です。歳をとっても欠かさず水泳の訓練を行っていた。なんで水泳かというと、これもやはり逃げるため。
戦いに負けて自分ひとりで逃げるとき、川を渡ることができるかどうかが生死をわかつ。水泳ができないと逃げきれない可能性も高くなるわけです。だからともかく水泳をやった。
つまり馬術も水泳も、すべて逃げることを前提にして訓練しているのですね。信長だったら「逃げるくらいであれば腹を切る。是非もなし」などといいそうですし、秀吉でも「前もって逃げることを考えるくらいならば、勝つ方法を考える」とかいいそうです。
ところが家康は逃げることをしっかり考えていた。そんなところに創意工夫があるというのは、天下を取る人としてはちょっと情けない気もしますが、ともかく家康の軍事は実に平凡。逆にいうと非常に手堅いのです。