「西の桶狭間」で名を上げた武将

そして「兵数差をひっくり返して勝利した人」というと、なんといっても毛利元就(1497―1571)の名が挙げられます。この人にはどちらかというと、戦場の勇者というよりも「陰謀をたくらんで頭脳で勝利するタイプ」のイメージがあるかもしれません。

毛利元就
毛利元就(写真=毛利博物館蔵/PD-Japan/Wikimedia Commons

しかし戦争マニアというわけではないのでしょうが、元就は意外と「戦闘の名手」という面があるのです。

彼のデビュー戦は「有田中井手ありたなかいでの戦い」(1517)。この戦いは「西の桶狭間」と呼ばれることもありますが、桶狭間のようには有名ではありません。

現在でいえば広島県の西半分にあたる安芸国には、守護大名の武田元繁(1467―1517)という人がいました。この武田は甲斐の武田の分家にあたりますが、そこの元繁が自分の地位を固めるために兵を募って、吉川や毛利を攻めはじめた。

そのときの軍勢は5000といわれています。その武田に元就は、毛利の全軍を挙げて立ち向かう。

当時の彼はまだ毛利の当主ではない。毛利本家の家督を継いだ子どもの「後見人」として、兵を率いる立場にありました。といっても毛利はもともと小さいですから、動員できるのはせいぜい1000ほどの兵。それに吉川を合わせて総勢1200ほどの状況でした。

「5000対1200であれば、絶対5000が勝つ」と思いますが、「有田中井手の戦い」では毛利元就が勝つ。このときに彼がどんな工夫をしたのか、正直わかっていません。

わからないのですが、とにかくみんなで必死に力を合わせて戦って、武田元繁の首をあげてしまった。謀略家のイメージがありますが、元就はここで「やってやろうじゃんか!」と、非常にヤンキー気質の戦いを繰り広げて勝利しました。

戦国時代でもっとも優秀な戦術家

また当時の中国地方は、目立つほどの武士は山陰の尼子か、山口県の大内か、どちらかの勢力につかざるを得ない状況でした。

毛利家は尼子サイドについたこともあり大内サイドについたこともありますが、最終的には大内を選択する。

そうすると、尼子の大軍が毛利の吉田郡山城を囲むことになるわけです。このときも兵力差がものすごくあったのですが、それでも元就は尼子の大軍に立ち向かって一歩も引かずに城を守り抜く。

そうしているうちに大内からすえ隆房たかふさ(1521―1555)が救援に来て、なんとかドローに持ち込んだ。この陶隆房はのちにクーデターを起こし、主人の大内義隆(1507―1551)を滅ぼしてしまう。それで陶晴賢はるかたを名乗るようになりますが、陶晴賢と元就は戦いを重ねることになります。

対陶戦でも元就の手際は光り、3回目に陶晴賢と戦った「厳島の戦い」では、このときも兵力差が相当にあったにもかかわらず元就が勝つ。

それで最終的に覇者となったわけですね。

私は、戦術面でいえば、戦国時代でもっとも優秀な戦術家はこの毛利元就かもしれないと思っています。

彼の場合でいえば3度も、圧倒的に兵力差のある戦いを制するか、持ちこたえるかした戦績を持っている。こうした戦績なり勲章なりを持っている人が、軍事的に優れた武将と見られるのでしょう。