――人間は「○○大学卒である」「××会社出身である」といった、「~である」という固定したビーイング(being)の存在ではなく、「~になる」という常に変化するビカミング(becoming)の存在である。この人間観はリーダーとしての小林氏の施策に大きな影響を及ぼすことになる。時代は「黄金の60年代」。富士ゼロックスの業績も急拡大していった。

【小林】草創期の富士ゼロックスは中途採用者が多く、超個性派集団でした。営業部隊は「自分の経験が第一」と考える。顧客になりそうなところに複写機をデモンストレーションとして持ち込み、試しに使ってもらって、後は夜討ち朝駆けで成約に結びつける。みんな活き活きと働くのですが、働き方はKKD(勘・経験・度胸)がまかりとおり、誰もが個人プレーの塊で自分のノウハウを宝物のように抱え込み、まわりと共有などしない。

技術部隊も、市場調査で顧客のニーズを調べても出てくる答えはどこがやっても同じだから意味がないと、自分たちの技術で勝負しようと考える、完全にプロダクトアウトの発想でした。それでも、会社は事務合理化の波に乗り、売り上げは年率で平均50%の伸びを続けました。

ゼロックスが開発した世界初の普通紙複写機は性能はよいものの高価でした。そこで、競合他社の複写機が買い取り制をとったのに対し、レンタル制という画期的な方法を導入します。複写機は貸すだけで、1枚につき10円のコピー料金を徴収する方式です。

また、当時の日本のメーカーの複写機は青焼きと呼ばれた湿式が主流でしたが、ゼロックスはゼログラフィーという乾式の複写技術を使っていました。その特許を取得し、独占的に使用することで優位な製品を送り出す。性能のよさとレンタル制が受け入れられ、富士ゼロックスは日本のコピー市場を席巻します。

「モーレツからビューティフルへ」のキャンペーンも、「ゼロックスの複写機は性能はいいが高い」というイメージに対し、「高くない」と訴える泥臭い広告はあえてせず、日本に新しい市場を創造している「ゼロックス」という新進企業としてのメッセージを発したものでした。

※すべて雑誌掲載当時

(岡倉禎志=撮影)