【小林】富士ゼロックスが設立されたのは、高度成長真っ盛りの1962年でした。当時、アジアの商圏はアメリカのゼロックス本社とイギリス企業との合弁会社が担当していたため、富士ゼロックスは富士写真フイルム(現・富士フイルムホールディングス)とそのイギリスの合弁会社が共同出資する形で設立されました。
私はといえば、慶應大学経済学部を卒業後、アメリカのペンシルベニア大学ウォートンスクールに留学し、当時の日本では珍しかったMBA(経営学修士号)を取得して帰国。父親の節太郎が副社長(その後、社長に就任)を務めていた富士写真フイルムに入社して5年が経っていました。アメリカのゼロックス本社の経営陣に「来ないか」と熱心に誘われ、「男冥利に尽きる」と翌63年に移籍を決意します。30歳のときでした。
ところがです。「これでも会社か。ひどいところに来てしまった」。それが第一印象でした。営業現場に行くと、ミーティング一つをとっても、幼稚園で先生が並びましょうと声をかけても、子どもたちが勝手に動いているような状態です。営業幹部として中途で募集してきた人たちの小論文を見ると、読むに堪えない。うちの会社にはこんな人たちしか来ないのか。こんな人たちに会社の将来を託して大丈夫か。一流企業だった富士写真フイルムとの落差に愕然としました。
その後、私は1年半ほどロンドンに駐在して帰任します。東京オリンピックをはさんで激変した東京の街並み。しかし、それ以上に驚かされたのは、見違えるほど変わっていた彼らでした。若手も中堅も、見事に成長し、変貌を遂げ、活き活きとパワーを発揮していた。
人を学歴や出身で、「この人は安心だ」「あの人は聞いたことのない会社から来たから心配だ」と判断するのは間違いだ。チャンスが与えられ、本人にやる気があれば、人は変わる。この体験はMBAあがりで頭でっかちだった私にとってものすごく大きなレッスンでした。