混迷する時代だからこそ、その発言が改めて求められている経済人がいる。富士ゼロックスで30年近く、社長、会長の職にあった小林陽太郎氏だ。その経営手腕の最大の特徴は、10年、20年先を読む先見性にある。典型が今の50代以上の世代の記憶に鮮明に残る「ビューティフルキャンペーン」だろう。

小林陽太郎
1933年、ロンドンに生まれる。56年、慶應義塾大学経済学部卒業。58年、ペンシルベニア大学ウォートンスクール修了後、富士写真フイルム入社。63年、富士ゼロックスに転じる。68年、取締役企画部長。70年、取締役販売本部長としてビューティフルキャンペーンを展開する。72年、常務取締役営業本部長。76年、取締役副社長として、全社的に品質管理(TQC)を推進。78年、代表取締役社長。80年、デミング賞実施賞受賞。87年、米国ゼロックス・コーポレーション取締役就任。90年、臨時行政改革推進審議会(第三次行革審)委員。92年、代表取締役会長。98年、日本アスペン研究所設立に伴い、会長に就任。99年、経済同友会代表幹事就任。2002年、世界経済フォーラム(ダボス会議)共同議長。04年、取締役会長。06年、相談役最高顧問。09年、退任。

「モーレツからビューティフルへ」――日本中が高度成長路線を邁進し、「企業戦士」たちが日々戦っていた最中の1970年、富士ゼロックスは経済至上主義へのアンチテーゼとして、真の豊かさを訴えるキャンペーンを打ち出し、若者の圧倒的な支持を得た。その推進役を務めたのが当時、37歳の青年取締役、小林氏だった。以来、40年間、常にリーダーとしての職責を担ってきた。

バブル崩壊直後の92年には「よい会社構想」を社会に向けて発表。「よい会社」とは事業活動で「強い」だけでなく、社会貢献などを通じて社会に「やさしい」こと、社員が仕事や人生を「おもしろい」と感じ、成長を実感できる会社であることの大切さを世に問うた。東日本大震災後の日本企業にとっての最大のテーマを20年前に先取りしていた。

経済同友会代表幹事に就任後の2000年、「21世紀宣言」を提起。市場参加者が「経済性」だけでなく、「社会性」と「人間性」を重視する価値観を持って市場を進化させるよう強く求め、“社会派経済人”としての存在感を示した。

02年には、世界の政財界の要人が集まり、重要課題を議論するスイスのダボス会議(世界経済フォーラム年次総会)の共同議長を務めるなど、屈指の国際派としても知られる。その初の評伝『小林陽太郎-「性善説」の経営者』(樺島弘文著 プレジデント社刊)がこのほど上梓された。評伝を一読して印象的なのは、創立50年を迎えた富士ゼロックスがたどった歴史だ。

「マネジメントは本来、クラフト(経験、技)、サイエンス(分析、科学的データ)、アート(直観、創造的発想)の3つを適度にブレンドしたものでなければならない」

世界で最も影響力のある経営学者の一人で、日本でも著書『MBAが会社を滅ぼす』が話題を呼んだカナダ・マギル大学のヘンリー・ミンツバーグ教授の説だ。富士ゼロックスの50年を振り返ると、まさに「クラフト期」「サイエンス期」「アート期」とも呼ぶべき過程をたどっていることがわかる。小林氏は、マネジメントの三大要素を身をもって体験し、それぞれのメリット、デメリットを実感した実践派の経営者でもあった。

日本は今、「明治維新、第二次世界大戦に次ぐ3つ目の分水嶺にかかっている」といわれる。問われるのは、クラフト、サイエンス、アートを統合した力だろう。そのとき、リーダーは何を基準に判断し、決断すればいいのか。評伝出版を機に日本を代表する賢人にインタビューを行い、活躍の軌跡を追う中で、今リーダーに求められる「あるべき姿」を探った。話は入社当時の原体験から始まる。