「普通の高校生の生活もしたい」とあえて県立高校へ
【村井】私は吉田麻也という選手の特性が「境界を越える」ことにあると思っているのですが、この時、麻也少年は長崎から名古屋へ最初の境界を越えるわけです。お兄さんのところに身を寄せてグランパスのジュニアユースで本格的にサッカーを始めます。
ジュニアユースからユースに昇格するとき、高校をどうするかという問題があるのですが、Jクラブのユースには提携校というのがあって、サッカーと学業の両立がしやすいように配慮されています。例えばテスト期間中はクラブの練習時間を調整したりするのです。
普通のユース選手はサッカーに専念する環境を優先して提携校を選ぶのですが、吉田選手は「サッカー選手だけじゃなく、普通の高校生の生活もしたい」といって愛知県立の豊田高校に進みます。ユース選手への特別の配慮はありませんから、テスト期間中は練習が終わってから試験勉強をするのでいつも徹夜だったそうです。ここでも吉田選手は提携校という一つの与えられた境界を越えてしまいます。
吉田選手はサッカー選手としては順調なキャリアを歩み、名古屋グランパスのユースから19歳の時にトップチームに昇格してプロになりました。U-18の日本代表にも選ばれ、2008年の北京五輪にも出場しています。
「自ら機会を創り出し、機会によって自らを変えよ」
【村井】名古屋グランパスのディフェンダーの主軸として活躍していた吉田選手はわずか3年でオランダのVVVフェンローに移籍します。しかし、ホペイロ(用具係)がいつもスパイクをピカピカにしてくれる恵まれた環境の名古屋グランパスに比べると、フェンローのロッカールームはシャワーもチョロチョロとしか出ない厳しい環境だったと吉田選手は語っていました。ここでも日本からオランダへと国の境界を越えています。
いちばん英語を勉強したのはこのフェンローの時代だったといい、念願かなってイングランド・プレミアリーグのサウサンプトンに移籍した。これが4回目の境界越えです。
――村井さんがかつて働いていたリクルートの創業者、江副浩正氏は「自ら機会を創り出し、機会によって自らを変えよ」という社訓を作りました。境界を越えることで成長せよ、というメッセージとも受け取れますが、吉田選手はまさに「自ら機会を創り出し」てやってきたわけですね。
【村井】その原動力が「弟力」なのだと吉田選手は説明していました。年の離れた兄ちゃんに向かっていってはやられる。それを何とか超えようとする。一方で、兄ちゃんにかわいがられるすべも身に付けていて、ジュニアユースの時、兄ちゃんの家でお世話になったように、境界を越えるのを手伝ってもらえるようにお願いする。こうした能力を総称して「弟力」と言っていました。