後ろ盾を失っても「意地」は貫いた

とにかく銀行という大きな組織の後ろ盾を自分の決断(家族から見れば身勝手)で打ち捨ててしまい、1人で生きていかねばならないのだ。家族の生活を支える責任もある。

私は、依頼される仕事は何でも受けた。テレビ、講演会、書評、コラムそして小説の連載などなど。非常に多忙を極めた。断ったら、仕事が無くなるとの恐怖に怯えていたのは事実である。

ただし、そんな状況でも私の意地(相手から言えば無理筋)を通し続けた。

私のデビュー作は『非情銀行』(講談社文庫)であり、銀行の内部告発的小説だった。それが割合と売れたのである。

ある編集者は「江上さんは銀行小説を書いてくださいよ。それがウリですから」としたり顔で言った。いかにも私のことを考えていますという表情だった。

私は銀行を内部告発しようと思って『非情銀行』を書いたわけではない。働く人の一人一人が生き生きと働くことができない組織の在り方を変えることができたらという願いを小説にしたのだ。

それなのに編集者は「柳の下に泥鰌が2匹も3匹」もいるかのような依頼をしてきたのである。

私は、彼の申し出を嫌悪し、拒否した。銀行組織の枠から飛び出した私を、再び枠に嵌めようとする姿勢が許せなかったのである。作家になった以上、私は、私が書きたい物を書く。私の作家としての領域を拡大するような作品を書かせて欲しい。

今から考えれば、たいした実績もない作家が、よくぞこんな姿勢を編集者に貫いたものである。

フリー作家の立場でぶち当たった“五十路の壁”

しかしお陰で私はいろいろなジャンルの小説にチャレンジすることができた。売れた小説もあるが、売れなかった小説もある。しかし最初に枠を嵌められなかったおかげで、私はいつでも楽しんで小説を書くことができた。だから20年も作家としてやっていくことができているのだと思う。

銀行という組織を飛び出して、後悔はしていないが、辛いことも多かったのは事実である。

会社人生で五十路の壁を経験しなかったが、フリーの立場で五十路の壁にこっぴどくぶち当たった。それをなんとかよじ登り、今では70歳という古希の壁が近づく年齢になってしまった。

壁に直面して立つ男性
写真=iStock.com/ANDREI NOVOZHILOV
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最悪だったのは、日本振興銀行破綻問題である。日本で最初のペイオフを行い、なんとか処理を終えてほっとしたのも束の間、整理回収機構から50億円もの損害賠償訴訟で訴えられ、負ければ破産するところまで追い詰められた。

なぜ私がこんな目に遭わなくてはならないのかと悔しく、腹立たしかった。講演会やテレビなどの仕事は無くなってしまった。新聞などのコラムの連載も消えた。銀行を破綻させ、謝罪会見をした人間に世間は冷たいのである。あの時ほど銀行という組織に守られていたことがどれほど価値があったのかと思い知らされたことはない。42歳の時、第一勧業銀行総会屋事件で、猪突ちょとつ猛進にトップを退任に追い込む行動をとることができたのは、組織が背後で守ってくれていたからだろう。

それでも私は自滅するわけにはいかない。後ろ盾が無くなっても潰れるわけにはいかない。自分が選択した人生に敗れることになるからである。

こんな事態に追い込まれた私を支えてくれたのは、小説を書くという行為である。連載小説を掲載していただいていた出版社には、謝罪会見をした人物、銀行の破綻処理をした人物に小説を書かせるのかと抗議の手紙などが届いたこともあった。しかし編集者たちはそうした抗議の声に屈することが無く、私に書きたい小説を書かせてくれたのである。感謝しすぎてもしすぎることはない。