しかし、三成の失脚を受けて政界に復帰する。奉行に登用されたわけではなかったが、家康をトップとする豊臣政権の吏僚として三奉行とともに手腕を発揮した。

先に討伐の対象となった前田利長との交渉役を務める一方で、宇喜多家の御家騒動では、家康の家臣・榊原康政とともに仲裁にあたった。今回の上杉討伐に際しても、討伐前には長盛とともに景勝との交渉役を務め、家康に従って会津まで出陣することになっていた(外岡慎一郎「大谷吉継の戦い」『関ヶ原大乱、本当の勝者』)。要するに、家康の信任が厚かったのである。

吉継は事務能力のみならず、軍事能力にも優れていたことはよく知られている。三成もその能力を大いに期待し、家康討伐を目指す挙兵計画に引き入れようとはかった。

七月二日、居城の敦賀城を出陣して美濃国の垂井に到着した吉継は、佐和山に使者を送る。石田家では三成の嫡男・重家が会津に出陣する予定であった。その際には、吉継に同行させる話となっていた。

ところが、三成は佐和山まで出向いてほしいと求めてきた。そして、佐和山にやって来た吉継に対し、家康打倒の挙兵計画に加わってほしいと懇請した。成功を危ぶむ吉継は翻意を促す。

その後、垂井に戻った吉継は、病気と称して数日逗留している。垂井に逗留中も、使者を通じて翻意を促すが、三成は頑として聞き入れなかった。

関ケ原古戦場
写真=iStock.com/gyro
※写真はイメージです

家康一強への危機感

ついに、吉継はともに決起することを決意する。七月十一日に佐和山へ入り、三成とともに挙兵計画を進めていく。関ヶ原の戦いではよく知られているエピソードである。

吉継は家康からも高く評価されたが、家康一強への危機感は三成と共有していたはずだ。三成はそこに期待し、説得を重ねたのだろう。

三成が吉継に期待したのは、三奉行を説得して家康打倒の挙兵計画に賛同させることであった。三成にせよ、吉継にせよ、長盛たち三奉行とは、事務能力が評価されて立身して豊臣政権をともに支えてきた間柄であった。吉継は三成の期待に応え、長盛たちを味方に引き入れることに成功する。

三成と毛利家を繋いだ安国寺恵瓊

吉継が挙兵に賛同した理由を、三成への個人的な友情だけに求められないことは言うまでもない。一般的には三成との友情に殉じた人物としてのイメージが強い吉継だが、それだけが理由ではなかった。

挙兵までの経緯をみていくと、輝元が三成の挙兵計画に賛同していたことが決定的だった。つまり、輝元を総師として推戴するのならば、勝算ありとして挙兵に賛同したと考えるのが自然である。

三成には人望がないとして、輝元を推戴して挙兵するよう吉継が勧めたという話も定説化しているが、事実ではない。これからみていくように、吉継が三成の挙兵に賛同してからわずか数日で、毛利家の大軍が大坂城を占領している。その前から、輝元が三成の挙兵に呼応することを決めていたと考えなければ、到底成り立たない軍事行動であった。