大谷吉継が病気と称して美濃垂井で二日間逗留している。上方では三成出陣との風評が流布しているので、まずは御一報申し上げる。

そして同時期、三奉行は家康に対し、三成と吉継による不穏な動きを鎮定するため、早々の上洛(上坂)を求める書状も送っていた。上杉討伐は中止し、急ぎ大坂に戻って三成と吉継を成敗してほしいと要請したのである。

すなわち、先の輝元への上坂要請は、三成の挙兵に呼応するよう求めたものではなかった。「大坂御仕置之儀」とは、挙兵を企てている三成・吉継を成敗することであった。まったく逆だったのである。

この段階では、三奉行は三成・吉継の挙兵計画に同調しておらず、逆にその制圧をはかっていた。そのため、会津に向かっている家康を大坂に呼び戻し、広島にいる輝元も大坂に呼び出そうとした。金沢にいた前田利長も、同じく三成・吉継の挙兵を鎮定するため、家康に上洛を求めている(笠谷和比古『関ヶ原合戦と大坂の陣』吉川弘文館)。

家康は「官軍の将」から「賊軍の将」に転落した

ところが、三奉行は豹変する。

一転、十七日に三奉行の連名で、家康討伐の方針を打ち出す。家康打倒を掲げる三成の挙兵を鎮定する立場から、挙兵を支持する立場に百八十度転換した。

三成や吉継の説得が功を奏した格好だが、決め手は輝元が挙兵に同意していることであったはずだ。挙兵に呼応するため大坂へ急行していることを伝えられ、家康と袂を分かつことを決める。

三奉行としても毛利家の大軍が家康不在の大坂に向かっている状況では、三成に楯突くことはできなかった。そもそも、家康独裁への危機感は三成と共有していただろう。

安藤優一郎『敗軍の将・家康 関ヶ原の知られざる真実』(日経ビジネス人文庫)
安藤優一郎『賊軍の将・家康 関ヶ原の知られざる真実』(日経ビジネス人文庫)

自分が挙兵の動きを示せば、三奉行は大老の家康や輝元に上坂を要請して封じ込めをはかるに違いない。輝元はそれに乗じて大軍を大坂に送り込み、その軍事力を背景に三奉行を味方に引き入れる。その後、豊臣政権をして家康打倒の方針を表明させる筋書きを三成は立てていたのではないか。その筋書きどおり、事態は進行していく。

こうして、三成が吉継を味方に引き入れてから数日後の七月十七日には、毛利家の軍事力を後ろ盾に、豊臣政権をして家康討伐の方針を表明させることに成功する。

まさに鮮やかな政変、軍事クーデターに他ならなかった。大坂にいた秀家も三成の挙兵に呼応し、輝元を総帥とする西軍に参加する。

この日を境に、家康は“官軍の将”から“賊軍の将”に転落した。

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