少年審判は「ブラックボックス」
少年事件の記録を保存するべき、2つ目の理由。
それは、少年審判をはじめとする少年司法が、まっとうな手続きで進められているかどうか、私たちには確認のしようがないブラックボックスだからだ。
たとえば、少年審判。少年法は、審判について「懇切を旨として、和やかに行う」としている。少年審判は、少年を裁くのではなく、更生させる場所だからだ。悪いことをした少年に対して罰を与えるのではなく、まっとうな人間へと立ち直ってもらおうという話である。
なるほど、理想はとても美しい。
しかし、この理想がアダになったケースもある。
・草加事件(1985年、中学3年の女子生徒が殺害された事件)
・山形マット死事件(1993年、中学1年の男子生徒が窒息死させられた事件)
――などが、それにあてはまる。
草加事件では、「刑事」の裁判で、逮捕された少年たちの「有罪」が確定した。ところが、被害者の遺族が賠償を求めた「民事」の裁判では、なんと少年たちは「犯人とはいえない」とする結論になった。クロなのかシロなのか、司法が迷走したのだ。
山形マット死事件では、少年審判で「無罪」とされた少年についても、民事裁判では「有罪」となった。こちらは判断が、シロからクロにひっくり返ったパターンだ。どちらの事件でも、混乱の背景にあったのは、少年審判での事実認定が不十分だったことだ。「和やか」が「アバウト」になったら、当事者たちはたまらない。
少年事件の記録は、ほとんど非公開。だから、裁判官や調査官がきちんと審理をしているのか、私たち外野からは確認のしようがないのだ。「記録を公表しないことが、ヘタをすると裁判所の“隠れみの”になっているんじゃないの?」そんな邪推だって、はたらいてしまう。
少年を立ち直らせることを目的としているはずの少年法制。もし、その手続きにミスや問題が生じていたら……。ここで、事件の記録が捨てられていたら、もはや検証のしようがない。闇に伏されてしまうことになりかねないのだ(※)。
筆者註※ちなみに山形マット死事件の記録は残されている。その意味は大きいだろう。
再犯というパンドラの匣
そして、3つ目の理由は、少年事件でずっとフタをされているテーマ。再犯の問題だ。
少年事件の報道が著しく減っていた時代に、新聞各紙が一面で大きく報じたオトナの事件がある。1979年の三菱銀行人質事件だ。
大阪市内の銀行で、猟銃を持った男(30)が、行員や客を人質に立てこもり、計4人を殺害。立てこもりから42時間後、男は警官に射殺された。
この男には、前歴があった。15歳の時に主婦(21)を殺害し、少年院に収容されていた。その後、わずか1年半で仮退院。そしてその十数年後、また殺人事件を起こしたのだ。
2005年には、無職の男(23)が、大阪市のマンションに暮らす若い姉妹を殺害する事件があった。この男もまた、再犯だった。16歳の時に実母(50)を殺害していた。そして、男は少年院に収容されてから3年後に仮退院していた。
ここで、いま一度、考えてみたい。そもそも、少年の事件では、なぜ刑事裁判ではなく、少年審判をするのか。
くりかえすが、少年の更生を最優先にするためだ。自分のおかしたあやまちを反省し、立ち直ってもらうためだ。そうであるならば、少年がその期待に応えられなかった場合に、どうして更生できなかったのかを、検証する必要があるのではないか。
もちろん、重大事件の再犯はきわめて少ない。そして、これは単純に少年を厳罰化するべきだ、という考えともちがう。
更生を期待された少年が、なぜ再び犯罪に手を染めたのか。今のところ、裁判所は再犯の検証をしようとはしていない。それは、裁判所にとってパンドラの匣でもある。
――もしもそのフタが、最悪なかたちで開いてしまったら……。
少年事件の記録は検証の材料になる。やはり、捨てずに残しておくべきだろう。