ニュースバリューは安倍元首相殺害事件並み

これがどれほど破格の扱いか。

たとえば、あれだけ話題になったリクルート事件の江副浩正の逮捕や、東京・埼玉連続幼女誘拐殺人の宮崎勤の逮捕。これらも、大きく扱われはしたものの、一面がそのニュースのみで埋まるということはなかった。

少年Aの事件は、新聞界のルールを打ち破ったのだ。

神戸新聞社に送られた神戸の小学生男児殺害事件の犯行声明文と挑戦状(兵庫・神戸市)
写真=時事通信フォト
神戸新聞社に送られた神戸の小学生男児殺害事件の犯行声明文と挑戦状(兵庫・神戸市)

少年Aの事件のあと、朝刊一面を全部まるごと埋め尽くすほどの忌まわしい殺人事件は、ながらく起きていない。今年7月の安倍晋三・元首相の殺害事件が、ひさびさの一面ジャックだったぐらいだ。

つまり、少年Aの逮捕は、一国の元宰相の殺害犯並みに、ニュース価値が置かれたのだ。そしてこの事件は、少年Aが逮捕されたあとも、続報が途切れることなくつづくという、異例の展開となった。

かくして少年Aの事件は、令和の時代の今も、色あせることなく人々の記憶に深く刻まれている。あらゆる事件は、時がたつにつれ風化して色あせていくのが世の常だが、少年Aについてはそうならなかった。時代を経ても忘れられることなく、何度となく引きあいに出され、むしろ少年事件の代名詞として定着していった。

世間と裁判所との埋めがたいギャップ

こうした経緯をふまえると、少なくとも世間やマスコミが、この事件を、きわめて重要な事件として捉えていたのは、あたりまえのことだろう。たとえ記録が見られなくても、その裁判記録は“当然”、保存されるべき、と考えるのは自然の流れでもある。

このたび記録がゴミとして捨てられていたことがわかって、非難の声が上がったのも、むりもない。

要するに、裁判所は少年事件のニュースバリューを見あやまったのだ。資料価値の見積もりが、世の中とズレていたということだ。

しかし、そもそも裁判所が、こうした世間とのギャップを埋めるのは難しい。裁判所に世間のジョーシキ感覚がそなわっていたら、そもそもこんな騒ぎになっていないのだから。

であるならば、いっそこの際、仕組みから解決したほうが早道ではないだろうか。つまり、この世間との感覚のズレ、ギャップを埋めることを裁判所に求めるよりも、保存することを「原則」、捨てることを「例外」とした方がずっと有効だろう(※)

筆者註※最高裁は2020年に民事裁判の記録を永久に保存するルールを作ったが、もちろん、すべての記録をとっておくわけではない。保存の対象となる記録は、ごく一部にすぎない(刑事裁判の記録を保存する法務省も、保存の基準を作ったのは2019年のことだ)。