大量生産には成功したが…
東京の喫茶店、レストランへは勝沼からアイスクリームを運び、それ以外は地元の山梨県で売ればいい。自分がやっていた甘太郎の店でも売れる。そうすれば夏場はアイスクリーム、冬場は焼き菓子で儲けることができると考えたのだった。
齊藤はアイスクリーム工場を建設し、最新式の冷蔵、冷凍設備を整え、菌の繁殖を防ぐための衛生管理を徹底した。
工場が完成し、操業をスタートしたのだが、できあがった商品を売ろうとしたら、明治乳業、森永製菓といった大手メーカーが販路を押さえていたことがわかった。
当時、アイスクリームが置いてあったのは洋菓子店やスーパーの店内にあるアイスストッカーだ。大手メーカーは自社のロゴが入ったアイスストッカーを貸し出し、売り場を押さえていた。齊藤がいくら営業しても、大手が優先権を持っているアイスストッカーの片隅にしか置くことができない。品質のいいアイスクリームを大量に製造することはできたけれど、売るところがないといった状態に陥ってしまったのである。
「もうダメだ」と思ったところからヒットは生まれる
齊藤は思い出す。
「アイスクリームでは利益は出ませんでした。あの時、大手メーカーが先行している商品と正面から勝負しても勝てないとわかりました。そこで、アイスクリームではなく、大手が手を出したがらない商品を開発することにしたのです。
大手がやらないのはシュークリームのような生菓子でした。そこで、シュークリームを大量生産して価格を下げて売ることにしたのです。
幸い、アイスクリーム工場を作った時、製造技術、衛生管理技術を学んでいました。大量に製造する自信はあったのです」
1967年、齊藤はシュークリームの本格的な製造を開始した。当時、シュークリームを売っていたのは洋菓子店だけで、いずれも手作りだった。洋菓子店のそれはいくら安くても1個50円はした。その頃の大学卒初任給(公務員上級)は2万5200円、ガム1個(クールミントガム)は20円の時代である。
齊藤がシュークリームであれば工場の製造ラインで大量生産できると考えたのは正しかった。
シュークリームの製造工程は、シュー生地を焼く、カスタードクリーム(今は生クリーム)を注入するというふたつしかない。ふたつの工程を機械化すればいいのである。齊藤は東京の機械メーカーと一緒に自動の製造ラインを完成し、製造をスタートした。