老舗パンメーカーの木村屋は2000年代に4期連続の赤字に陥り、社長が退任しても役員全員が新社長を辞退するほど経営が混乱していた。そこからどうやって再生したのか。淑徳大学経営学部の雨宮寛二教授が解説する――。

※本稿は、雨宮寛二『2020年代の最重要マーケティングトピックを1冊にまとめてみた』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです。

パン製造会社「木村屋総本店」の配送トラック
写真=時事通信フォト
パン製造会社「木村屋総本店」の配送トラック=2022年1月10日、東京都中央区

パンの開拓者から一転、経営難に

木村屋總本店(木村屋)は、1869年(明治2年)に木村安兵衛氏により創業されました。初代安兵衛氏が東京・芝に開いた1軒のベーカリーから始まり、現在、関東の百貨店や駅ビルなどで27店舗を展開しています。

木村屋と言えば代名詞となっているのが「あんぱん」であり、日本で初めてあんぱんを作ったのが木村屋です。安兵衛氏は息子英三郎氏とともにあんぱん作りに邁進し、酒饅頭を作る時に使う酒種に目を付け、しっとりとした生地が特徴のあんぱんを1874年に作り上げました。

その開拓精神は受け継がれ、木村屋三代目の木村儀四郎氏は、1900年に米国のジャムを挟んだビスケットをヒントに日本初のジャムパンを開発しました。また、木村屋四代目の木村栄三郎氏は、1981年にむしケーキを初めて世に送り出しました。現在人気の「ジャンボむしケーキプレーン」(130円)は、首都圏の蒸しパン売上ランキングで11年連続トップに輝いています。

このように木村屋は、世代ごとに新しいパンを開発して顧客の心をつかんできましたが、2000年に入ると4期連続の赤字となり、経営は火の車に陥ります。毎年の売上は160~170億円を計上するものの長期負債が150億円に達し、毎月資金が2億円足りない状況が2年ほど続きました。

役員がだれも社長になりたがらない中…

さらに、老舗の驕りも業績の低迷に拍車をかけます。当時会長を務めていた木村信義氏が「いいものを作っていれば自然と店からの注文がある」との考えから営業を廃止してしまうのです。会社全体に「売り込まなくていい」という雰囲気が蔓延したことから、営業部員が隠れて仕事をする状況に陥ることになります。

最終的にメインバンクが経営者の交代を要求し会長と社長は退任しましたが、残った役員全員が社長を辞退する惨状でした。その結果、現社長である木村光伯氏が2006年に28歳の若さで社長を引き継ぐことになります。

光伯氏は、社長就任後次々と思い切った改革を断行し会社を立て直していきました。真っ先に取りかかったのが、当座の運転資金の捻出。工場や会社の寮、新宿区内にあった600坪の自宅などを売り払うことで現金を作りました。

当座の運転資金ができると、本格的に経営効率を高めることに着手します。商品数の絞り込みによるコストカットで、事業の徹底的な効率化を図り、工場の閉鎖に伴い、200人の従業員のリストラも断行したのです。

製造の現場では細部にわたりマニュアルを導入し、各工程の作業内容を細かく数値化することで、経験値の低い職人でも商品を作れるオペレーション体制に移行しました。