ただ一人残った子は孫に殺される

政子の実子として最後に残った実朝は、朝廷との融和を図り、その間に御家人たちの不満は募りがちではあったが、実朝自身はとんとん拍子で昇進を続けた。

源実朝像〈藤原豪信画〉
源実朝像〈藤原豪信画〉(図版=『國文学名家肖像集』/PD-Japan/Wikimedia Commons

実は、その前に政子は朝廷とかけあって、後鳥羽上皇の皇子を将軍に迎える画策をしていた。実朝は病弱なうえに子もなく、このまま将軍職は務まらないだろうという判断で、それに実朝も同意していたという見方もある。

いずれにせよ政子にとっては、ただ一人残った実子に「鎌倉殿」は務まらないと判断するのはつらかっただろうし、一方で、親王を将軍として迎えられれば、息子の安全が保たれる、という思いがあったのかもしれない。

しかし、そんな願いも虚しかった。建保7年(1219)正月、右大臣拝賀の儀式が鶴岡八幡宮で行われ、社前の石段を下っているところを、甥(頼家の次男)で鶴岡八幡宮別当だった公暁こうぎょうに暗殺されてしまう。享年は26だった。公暁は単独での犯行とする説と、黒幕が存在していたという説があるが、どちらにしても、その日のうちに討たれている。享年18。

公暁ら頼家の子を仏門に入れたのは政子の判断だった。政子の孫は頼家の4男1女だけで、すでに殺されていた一幡を除き、3人の男子(公暁、栄実、禅暁)はみな出家させたのだが、それは政争に巻き込まれるのを避けるためだった。ところが、その効果はなかった。

まず三男の栄実が、北条氏への反感を抱いたいずみ親衡ちかひらに将軍として擁立されて殺されている。続いて次男の公暁である。政子にとっては、ただ1人残った自分の子が自分の孫に殺される、という最悪の結果になってしまった。そしてもう1人、頼家の四男の禅暁も公暁に加担した疑いで、実朝暗殺の翌年、殺されている。