政子の表情の奥にある悲惨な体験

その後、承久3年(1221)の承久の乱に際しては、後鳥羽上皇が挙兵したという報に動揺する御家人たちに向かって、「最後のことば」として「故右大将(頼朝)の恩は山よりも高く、海よりも深い」という声明を出し、彼らをまとめあげて幕府軍の大勝利のきっかけを作った政子。

しかし、その心は、実は山よりも高く、海よりも深く傷んでいたのではないだろうか。それとも、この時代を力強く渡っていけた精神には、肉親の相次ぐ非業の死も、大きくは響かなかったのだろうか。

承久の乱で勝利したのちも、事実上の鎌倉殿である尼将軍として君臨した政子は、嘉禄元年(1225)に病にたおれ、68年の生涯を閉じた。それから9年後、政子の孫として唯一生き残って、北条氏が4代将軍に迎えた藤原頼経の御台所となっていた竹御所が、男児を死産し、同時に亡くなった。こうして頼朝と政子の血筋は完全に絶えることになった。

強さが悲劇を呼んだのか、悲劇を乗り越えられる強さがあったのか。政子の表情の奥に彼女が積み重ねてきた凄惨せいさんな体験を思い浮かべると、大河ドラマの味わいも増すはずである。

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