20歳を迎えずに2人の娘は病死した

7月までの放送のなかで、政子はすでに2人の娘を失っている。最初は長女の大姫である。

彼女は木曽義仲の嫡男で、事実上、鎌倉に人質にとられていた義高の許嫁いいなづけだったが、義仲滅亡後、義高は殺される。すると大姫は強い精神的な衝撃を受け、その後はずっと病気がちになってしまう。それでも、将軍家の権威を高めたい頼朝は、大姫を後鳥羽天皇のきさきにするという工作に乗り出すのだが、結局、建久8年(1197)7月に、20歳を迎えることなく病死してしまう。

代わりに頼朝は、頼家の妹に当たる(政子とのあいだに生まれた)次女の三幡を入内じゅだいさせることにするが、それを前にして頼朝自身が急死し、それから半年もたたずに三幡は満14歳を迎えることなく病死している。

政子には4人の子がいた。順に大姫、頼家、三幡、千幡せんまん(のちの実朝)で、娘が2人とも20歳を迎えることなく早世した以上、2人の男子にかける期待は大きかっただろう。

だが、周知のように、頼家は頼朝が急死してから5年あまりで殺されてしまう。しかも、そこにいたる過程に政子自身がからんでいる。

子と孫は他人に殺され、父親は自分で追放

その悲劇は、『吾妻鏡』によれば、建仁3年(1203)8月に頼家が危篤に陥ったことに始まっている。

幕府内での話し合いで、頼家の嫡男の一幡いちまんが東日本を、弟の千幡が西日本を継承することになったが、頼家の外祖父の比企能員は不満で、娘(頼家の妻・若狭局)を通じて頼家に働きかける。結果、能員は頼家の病床に呼ばれ、北条氏討伐の計画を話し合うことになるが、その話を障子越しに聞いていた政子が父の北条時政に急報。結局、能員は時政に謀殺され、比企一族も滅ぼされ、そのとき一幡も殺されてしまう。

その後、病状が回復した頼家は息子と舅の死を知って激怒し、北条討伐をもくろむが、逆に政子の命令で出家させられ、挙げ句、翌元久元年(1204)7月に修善寺で、北条の手勢によって殺された。満21歳にすぎなかった。

幕府に都合のいい書き方をする『吾妻鏡』をそのまま信じることはできない。とはいうものの、政子は将軍不在の際、その代行を務めるという立場であって、自身が関与する政局のなかで最愛の長男を失ったことには変わりない。ちなみに、一幡は政子の初孫だった。

この時点で政子の実子は千幡しか残っていない。その千幡が実朝と名乗って「鎌倉殿」を継承することになった。だが、今度は実父との争いが勃発する。

父の時政が実朝を囲って権力を独占するのを嫌って、政子は実朝を自分の手もとに連れ戻した。すると、時政と妻の牧の方は反発。しまいには女婿の平賀ひらが朝雅ともまさを将軍にしようと画策したので、元久2年(1205)、政子は弟の北条義時と組んでその陰謀を阻止し、実父を出家させたうえで伊豆に追放せざるをえなくなった。

事実上の最高権力者として、守らなければならないものが次々と生じた政子。彼女が息子や父を追放しなければ、政局はさらに陰惨な結果を招いたかもしれない。しかし、それがことごとく身内の不幸につながるとは、あまりに惨憺さんたんたる境遇ではないか。