鮮やかな緑色の瓶で知られる個性派ビール「ハートランド」。根強いファンの多いこの異端のビールは、実は当時のキリンの主力商品だった「ラガー」を潰すために開発されたという。開発チームを率いた天才マーケターは、なぜ自社の主力商品を潰そうとしたのか――。

※本稿は、永井隆『キリンを作った男』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。

ラベルのないビール

今まさに、バブルの時代が幕を開けようとしていた1986年。その一風変わったビールは生まれた。

一風変わったビールとは「ハートランド」。目に鮮やかな緑色のボトルが印象的な、麦芽100%の瓶ビール(500ml)だ。「ハートランド」が、キリンビールの製品ということさえ、意外と知られていない。

ボトルにはラベルがなく、ガラスにエンボス(浮き彫り)が施されているだけ。「KIRIN(キリン)」のロゴすら入っていない。

このボトルのデザインは、ニューヨーク在住クリエーターのレイ吉村が手掛けたものだ。ニューヨークの沖合に沈む沈没船から発見された、古い瓶の形をイメージしたという。

エンボス部分に描かれた大樹のイラストは、画家ラジャー・ネルソンが描く、イリノイ州の穀倉地帯の風景がもとになっている。

ハートランドの瓶。右は発売当時の瓶で、現在のものと異なり、手触りがボコボコとしている。奥には「ハートランド」開発に携わった漫画家のしりあがり寿氏。
撮影=豊島望 写真提供=キリンホールディングス
ハートランドの瓶。右は発売当時の瓶で、現在のものと異なり、手触りがボコボコとしている。奥には「ハートランド」開発に携わった漫画家のしりあがり寿氏。

「ハートランド」は、当時テレビ朝日系で放送されていた「愛川欽也の探検レストラン」という料理バラエティ番組向けに作られた。ちなみに、同番組のスポンサーはキリン1社だった。

番組向けのビールではあったが、テレビ朝日の旧局舎内のレストラン「たべたか楼」で、実際に飲むことができた。

「ハートランド」はその後、キリン直営店でも提供されることになる。その直営店とは、現在六本木ヒルズがある、当時は「再開発予定地」だった場所に86年10月にオープンした、「ビアホール・ハートランド」である。

そもそも「ハートランド」は、この「ビアホール・ハートランド」のために開発されたビールだった。テレビ番組での使用はPRのための施策に他ならない。

「ビアホール・ハートランド」もまた、普通のビアホールではなかった。

建物自体かなり個性的だった。かつてのニッカウヰスキーの原酒貯蔵庫跡で、通称「穴ぐら」(客席数54席)と呼ばれる建物と、大正初期にドイツ人が設計した蔦の絡まる4階建ての洋館「つた館」(同142席)からなっていた。フルオープンしたのは11月7日。

自社の看板商品「ラガー」をたたき潰す

「ハートランド」プロジェクトを実質的に仕切ったのは、当時キリンのマーケティング部に在籍していた前田仁(1950~2020年)。前田は「ビアホール・ハートランド」の初代店長も務めている。

関西学院大学経済学部を卒業した73年に入社した前田は、大阪で業務、営業の仕事を経験したのち、80年にマーケティング部へ異動していた。本社にマーケティング部が発足したのと同時だった。

当時のキリンは、ビール業界において絶対的なNo.1企業だった。72年から、「ハートランド」発売前年の85年まで、キリンのシェアは連続して6割を超えていた。もっとも当時、キリンはこれ以上売り上げを伸ばせない状況にあった。独占禁止法に抵触し、会社が分割される可能性に直面していたのである。

ただ、「ハートランド」がキリンのロゴを外した理由は、「シェアの取り過ぎ問題」のためではなかった。

キリン関係者は次のように語る。

「ハートランドの本当の狙いは、主力商品のラガーをたたき潰すことにあったのです。社内でも数人しか知らない極秘作戦でした」

「ハートランド」の開発が始まった83年9月。

当時、キリンのマーケティング部長を務めていたのは桑原通徳みちのり。桑原は53年入社。大阪で営業畑を歩み、79年には神戸支店長を務め、83年4月に本社マーケティング部長に就任していた。

「桑原さんは前田さんの才能を見抜いていた。だから『責任は俺が取るから、好きなようにやっていい』と、前田さんにすべて任せていた。桑原さんがいたから、『ハートランド』のような攻めた企画が通ったんです」

そう語るのは真柳亮。79年入社の真柳は神戸支店に配属され、支店長の桑原の下で「伝説の営業マン」としての才能を開花させる。