時代を先取りした「ビアホール・ハートランド」

「ビアホール・ハートランド」は、画期的なお店だった。「キリン」の看板はなく、ぱっと見ただけでは、キリンの直営店舗とはわからなかった。来店客は、キリン直営店とは知らずに、ビールの素直な感想を語ってくれた。

そうして得られた貴重なインサイト(消費行動の確信となる心理)を、商品開発や改良に活用する。「ビアホール・ハートランド」の狙いはここにあった。また、時代を先取りする、最先端の文化拠点となった点も特徴だった。

2つの建物のうちの「つた館」では、音楽や舞踏、演劇などのライブイベントが開催されていた。「穴ぐら」でも、現代アートなどの展示が行われていた。当時のアーティストからは「ハートランド・ギャラリー」と呼ばれ、アーティストたちの交流の場となっていた。

ビアホール・ハートランド「穴ぐら」の店内。
写真提供=キリンホールディングス
ビアホール・ハートランド「穴ぐら」の店内。

望月寿城は次のように語る。

「ビアホールの候補地を探して、前田さんと一緒にあちこち歩きまわりました。横浜の赤レンガ倉庫にも行きました」

オープンから87年4月20日までの約半年間、前田は初代店長を務める。当時、原宿にあったキリン本社に朝9時に出社すると、通常の仕事をこなす。夕方か、時には昼前から六本木の「ビアホール・ハートランド」に移動し、スーツから店のユニフォームに着替えて、閉店まで店に立っていたという。

「前田さんは、どんなときでも飄々ひょうひょうとしていました。ビアホール店長の経験などありません。それなのに、ライブハウスであり、美術館でもあるような運営の難しいお店を仕切っていたのです。しかも、前田さんは少しも不慣れなところを見せませんでした」。望月は当時の前田をそう語る。

口コミ・マーケティングの6つの極意

前田を敬愛していた真柳は、「ビアホール・ハートランド」の開店初日に客として訪れた。真柳が当時交際していた婚約者(現在の夫人)と2人で食事をして、レジで会計をした。その時、前田はニタニタ笑いながら、こう言ったという。

「お客さんは君たち2人だけ。あと、僕が少し自腹で飲んだ分も入れて、しめて3800円。オープン初日の売り上げはそれだけだ」

それを聞いて、真柳はさすがに心配になったという。ただ前田はこう答えた。

「ハートランドはネットワークで売っていくつもりなんだ。だから、最初はお客さんが来なくても仕方がない。いずれは満員になる」

当時を振り返って真柳は語る。

「前田さんはうっすら笑みを浮かべていて、自信たっぷりに見えました。だから、そういうものかと安心したのを覚えています」

スマホはもちろんネットもパソコンも普及していない時代だ。ネットワークといっても人から人への口コミが中心だった。

前田は当時、どうすればメディアを使わない宣伝ができるかを研究していたという。

「ハートランド・プロジェクトをやっていた時、随分考えたことがあります。どうしたら口コミを起せるか。どうしたらペイドでないパブリシティーができるかを」(2003年4月8日作成の前田仁の講演録「思考の技術について」)

その結果、前田がたどり着いたのは、次の6つのポイントだった。

①一つの商品にたくさんの情報価値=語りたくなる、伝えたくなる価値を盛り込む
②発信しようとする情報を受け手の身になって考える、整理する
③時代を読む
④関与者を多く作る
⑤影響力のあるメディアほど情報感度は鈍い。雑誌→新聞→ラジオ・テレビの順番を意識する
⑥追い駆けるより追い駆けさせる構造を作る。

今でも最先端の手法に、前田は80年代半ばの時代から取り組んでいたのだ。

「ビアホール・ハートランド」は、やがて活況を呈する。ライブやアート目当ての客も増え、来店者数は右肩上がりに増えていった。「いずれお客さんが溢れる」という前田の予言は的中した。

「ハートランドの店長時代にも、店を閉めて、売り上げの100万円を超える現金を数え、六本木交差点の三菱銀行の夜間金庫に入れに行くという経験をしましたが、その時の緊張感は未だに忘れません」(「思考の技術について」)

「ビアホール・ハートランド」の大きな特徴として、期間限定の店舗だったこともあげられる。再開発予定地の古い建物を使っていたため、建設工事が始まると営業できない。そのため、当初より2年5カ月という期限つきでスタートしていた。期限は2回延長されたが、90年12月には閉店することになる。

閉店までの4年2カ月で「ビアホール・ハートランド」を訪れた総来場者数は、実に56万人にも及んだ。