5つの時代原理

「ハートランド」開発プロジェクトを担当したのは、マーケティング部で課長だった上村修二と、新入社員の太田恵理子。のちに漫画家「しりあがり寿」として有名になる望月寿城、そして前田仁の2人が後から加わる。

84年夏、上村は太田にこう質問した。

「プロジェクトの進捗しんちょくが思わしくない。メンバーを追加したいが、誰がいいだろうか」

太田はすぐ、「前田さんがいいと思います」と答える。

太田は東京大学文学部社会心理学科を卒業し、83年にキリンに入社。すぐマーケティング部に配属されている。プロジェクト発足の頃、前田は清涼飲料を担当していた。その頃の前田について太田はこう証言する。

「前田さんはちょっとクセのある人でした。作る商品も変わったものばかり。大きな病気で休職したせいか、少し斜に構えたところがありました。一方、誰に対しても自分の意見を曲げない、芯の強い人だとも感じました」

プロジェクトチームに加入した前田は、さっそく「ハートランド」の商品コンセプトを作ってくる。

亀田製菓の社外取締役に就任時の前田仁氏(2014年)。
写真提供=キリンホールディングス
亀田製菓の社外取締役に就任時の前田仁氏(2014年)。

「素(そ・もと)=もの本来の価値の発見」

前田が鉛筆で手書きした紙には、そう書かれていた。この時、前田はコンセプトとともに、「これから時代は何を求め、どう動くか」を整理した、「5つの時代原理」も示している。

①個としての確立を目指す時代
②能動的な情報判断を目指す時代
③人間の感性を再開発する時代
④新しい本物が求められる時代
⑤Less is more(過剰装飾、過剰機能の商品より、無駄なものを取り去ったシンプル、ナチュラルが求められる)の時代。

この時、前田はすでに、「大量生産・大量消費の時代が終わり、心を動かす製品の時代へ移る」ことを、明確にとらえていた。

「ハートランド」の裏コンセプト

「大量生産・大量消費」は当時の常識であり、「ラガー」はまさに象徴だった。しかし、前田のコンセプトはそれを真っ向から否定するものだった。だが、桑原は前田を強く支持する。こうして「ハートランド」は、「量より質を追及し、コアなファンに愛されるビール」として開発されることになった。

その方針は徹底していた。「ハートランド」の開発では、大学教授やアーティスト、編集者といった『時代を先取りする人々』だけにアンケート調査を行う。「ハートランド」は当初テレビCMを一切打たなかった。実は、「ハートランド」には、「お客様に見つけさせる商品」という「裏コンセプト」があった。

「ハートランド」は、量を売る商品でなかった。前田が考えていたのは、質で「ラガー」を上回ることだった。

そのため、「ハートランド」の販売戦略は、特定の人に深く刺さることを目指し、東京限定販売を前田は提案する。保守的な気風が強い地方では受けない、と判断する。

だが、時代を先取りし過ぎたせいか、「ハートランド」は会社の主流である営業部門の猛烈な反発を招き、東京限定販売の提案は却下されてしまう。

次善の策として前田が打ち出したのが、「ハートランドを直営店『ビアホール・ハートランド』だけで提供する」という戦略だった。

太田はこの間の事情を次のように語る。

「営業部の反対で、プロジェクトは八方塞がりに陥りました。その中でもなんとか代案を出し、プロジェクトを実現できたのは、前田さんのおかげでした。もともと芯の強い人でしたが、あれほどのパワーを発揮できる人とは、思っていませんでした。きっと、難しいプロジェクトを通じて、前田さん自身も成長していったんだろうと思います」