自己啓発本はどれもがムー的である
当然ながら、マーフィーの成功哲学は昔から知っている。中学生のころには、すでに何冊か読んでいた。読んでいると、なんというか、安心する。成功した姿をイメージするだけでいいのだから、セルフマインドコントロールには、もってこいだ。受験参考書でいう合格体験記を読んでいるようなもので、その気になってしまう。
ある意味、思い込むことが重要だ。学生時代には、テストの成績がよくなる、部活動の試合で優勝する、恋愛が成就するといったことなど、何かにつけてマーフィーの成功哲学を実践したものだ。
おかげで志望した大学に入ることができ、卒業して学研に入社、しまいには月刊『ムー』の編集に携わることになったのだから、効果があったのだろう。今でも、何かあったら、マーフィー本を開いている。月刊『ムー』の企画にも役立っていることは、いうまでもない。
今日、ビジネス書にはたくさんの自己啓発本が並んでいるが、どれもがムー的である。
すべてがオカルト本だとはいわないが、スピリチュアル本であることは確かだ。読むことでポジティブになれる。実践して、実際に成功するかどうかはわからないが、人生に行き詰まったら、読む価値はある。少なくとも、精神安定剤にはなるだろう。
「落穂拾い」に描かれた3人は、いったい何者か
世界的に有名な絵画に「落穂拾い」がある。19世紀のフランスの画家ジャン゠フランソワ・ミレーによって描かれた風景画である。刈り取られた麦畑に3人の人物が描かれている。彼女らは腰をかがめて、地盤の落穂を拾っている。穏やかな日差しを受けて、平和な日常を写実的に描いている。
さて、ここで問題です。「落穂拾い」に描かれた3人は、いったい何者でしょうか。彼女らは架空の存在ではなく、実在した人物だ。少なくとも、この風景が描かれたシャイイの農村に住んでいた人物がモデルになっていると考えられている。
おそらく日本人の多くは農家の方だと答えるだろう。この麦畑の持ち主で、刈り取ったときに落ちた穂も、大切に拾っている。食べ物を粗末にしてはいけない。ひと粒の米には七人の神様が宿っていると教えられてきた日本人なら、そう思うだろう。農家の方なら、なおさらだ。
しかし、これ、根本的に間違っている。描かれた3人は、この畑の持ち主でもなければ使用人でもなく、ましてや地主でもない。畑のオーナーからすれば、まったくの他人である。赤の他人が自分の畑に勝手に入って、落穂を拾っているのである。おそらく貧しい農家か、そもそも農民ではない可能性もある。いわば生活に困窮している人々が裕福な農家の畑に入って農作物を持ち去っている。悪いいい方をすれば麦泥棒なのだ。
「麦泥棒」の背景にある旧約聖書の教え
なぜミレーは麦泥棒を題材にして絵を描いたのだろうか。実は、これには深いわけがある。畑のオーナーは、なぜ、そもそも麦泥棒を追い払わなかったのか。なぜ、そのまま落穂を拾うことを許したのか。ここなのだ。
理由は『聖書』にある。『旧約聖書』の「レビ記」にはイスラエル人に対する戒めとして、収穫の際に落ちた穂は拾ってはならないと定められているのだ。なぜなら、落穂は寄留者、つまりは流浪の民や社会的な弱者のためのものだから。かつてはイスラエル人も寄留者だった。そのことを忘れてはならないというわけである。
畑のオーナーは、これを知っていた。ユダヤ教徒、もしくはクリスチャンだったのであろう。『聖書』の教えを守っていた。だからこそ、落穂を拾わずに、そのままにした。あえて残された落穂を拾う人々を描くことによって、ミレーは畑のオーナーはもちろん、この農村に住んでいる人々の敬虔な信仰を表現したのである。
とはいえ、これは『聖書』を知らなければ、まったく理解できない。ほとんどの日本人が抱くように、拾っているのは畑の持ち主だと勘違いしてしまう。描いた人間はもちろん、描かれた時代や国、民族を知らなければ、絵画を理解したことにならない。
とくに欧米はもとより、中東など、ユダヤ教やキリスト教、イスラム教の世界では、すべての根本は『旧約聖書』である。これに『タルムード』でユダヤ教、『新約聖書』でキリスト教、さらには『コーラン』でイスラム教なのだ。