「分析」すれども「抗議」せず
なぜ男性は「分析」はすれども「抗議」しないのか? 「俺はそういう男と一緒じゃない。そういう男は迷惑だ、やめろ」と、なぜ男は男を戒めないのか。問題と自分との距離を縮め、自分ごととしないのか。
「分析」とは、俺は感情的にはならないと示すポーズであって、理性を装えど自分達自身から目を逸らしているのだ。もしかして自分もそうなりかねないという男性間の同族的な遠慮や罪悪感からであるにせよ、沈黙は消極的な肯定だ。そこに女たちは苛立つ。「あなた個人はどうなのか」「なぜ男の中でそういう男を戒める空気がないのか」。いまだ男性社会の色濃い企業などでは特に、セクハラやパワハラなどのハラスメント問題、それらを包括するコンプライアンス問題は、男性が男性を断じなければ根本的な解決は望めないのである。
そういった点で、伊東発言に対する早稲田や吉野家のスピーディーな対応には「それしかない対応を素早く打った」と評価の声も上がった。だがそんな当然と言えば当然の対応を褒められてしまうくらい、日本のビジネスシーンではそんな当然の対応すら取られてこなかったことの表れでもある。
傍観していると自分の身が危ない
いまだ誤解されることも多いようだが、セクハラ、パワハラといった行為は、ニヤニヤ顔で噂され消費されて終わる「醜聞」ではない。傍観者としての薄ら笑いのスルーでは済まない、失職や、その先の法的訴追へつながる、法律問題だ。場合によっては「笑って見逃した人間も同罪」となりかねない、シリアスな話なのである。
「一発アウト」とされる伊東発言の現場ですら、当惑の空気はあったものの、その場で抗議行動を起こせる人はいなかったという。日本のビジネスシーンにおける同調圧力の強さを痛感させられるが、今回の件で(発言者本人の意識では『冗談めいた』)性的なアングルからの問題発言に対しても、「沈黙=消極的な肯定」は場合によっては自分の身を危険に晒す可能性があるぞ、とあらためて意識した組織人もいるかもしれない。
たとえば、もしこの件でこの先の吉野家の売上に甚大な影響が出た場合に「伊東氏を諸手を挙げて吉野家の経営陣に招いた人物は誰だ?」という責任追求の動きが発生しないとはいえない。吉野家はその点の対応も迅速で、伊東氏解任の同日、プレスリリースで代表取締役社長の3カ月間の固定報酬30%減額を明らかにしている。リスクの匂いがすることに対しては、その場できちんと意見したり、態度を表明したりする必要があるということだ。よく言われる、誰かの悪口に黙って頷いていただけで「あいつも仲間だ」とされ、派閥争いに巻き込まれて失脚させられる話と同じである。