吉野家騒動に潜んでいるもう1つ別種の差別
「田舎から出てきたばかりの生娘をシャブ漬けにする企画」。吉野家の伊東正明・常務取締役企画本部長は、若い女性向けのマーケティング施策についてこう表現し、役員を解任された。不快に思うのは無理もない。なにしろ、その表現には、吉野屋を訪れる客を馬鹿にしているばかりか、人身売買的犯罪を肯定するようなニュアンスが含意されているからだ。
とはいえ、ちょっと気がかりなことがある。
くだんの発言を非難する人のなかには、「シャブ漬け生娘」という表現から「シャブ山シャブ子」(「相棒 Season 17」, テレビ朝日, 2018)のような覚醒剤依存症者のイメージを思い浮べ、「あんなゾンビみたいのと一緒にするな!」と憤る人が混じっていないだろうか?
勘違いかもしれない。私が薬物依存症を専門とする精神科医で、それこそ世間から「シャブ漬け生娘」と形容されかねない患者の治療をするのを生業としているせいで、いささか神経質になりすぎている可能性もある。
だが、もしも私の懸念に多少ともあたっている点があるならば、この騒動の深層には、もう一つ別種の差別が存在することにならないか。
「シャブ漬け」になるのは依存性が強いからだけではない
おそらく世間の人たちが「シャブ漬け生娘」という言葉から想像するのは、次のようなイメージであろう。
覚醒剤に脳と心を支配され、それを手に入れるためならば、暴力をふるう男との生活に耐え、見知らぬ男に身体を売り、仕事も乳飲み子の世話も放り出して薬物に耽溺する女性、あるいは、世の中にはそんな生活よりももっと楽しく、素敵なことがあるはずなのに(=牛丼よりももっとおいしい高級料理があるはずなのに)、シャブ以外目もくれず、薬物中心の生活を送っている女性……。
だが、物事はそんな単純ではない。彼女たちが「シャブ漬け」になるのは覚醒剤が強力な依存性薬物だから――だけではないのだ。いくら何でも、それでは薬物の影響力を過大評価しすぎというものだろう。「ダメ。ゼッタイ。」なるプロパガンダを掲げる薬物乱用防止教育では、「一回やったら人生は破滅」と連呼されるが、これは疑似科学的なフェイクニュースにすぎない。