60年、日本代表は欧州遠征を行った。帰国後、参加選手の一人だった鎌田が、

「こんなのがあったよ」

と、西ドイツ土産の1足のサッカーシューズを安田に持ってきた。ヨーロッパで出回り始めていた、アディダス製のゴム底マルチスタッド・シューズである。

革製のスタッドのように交換は効かないが、ゴム製で多数のスタッドを持つソール(靴底)の方が、日本の硬い土グラウンド上では数倍長持ちすることは明らかだった。

父に代わって経営の指揮を執り始めた一男は、

〈今のように一足一足手作りするやり方では、この先商売として成り立っていかない〉

という不安を抱えて、将来を模索していた。そんな時目にしたのが、アディダスの黒いゴム底である。彼は、職人仕事の良さは残しながらサッカーシューズを工業製品として量産しよう、と決心した。

ゴム底を製造できる工場を説得し、協力を取り付けた。パンプスやハイヒールなど婦人靴の隆盛のおかげで、日本で良質の接着剤が作られるようになったことも、商品化の追い風になった。

外国製品を見習って大躍進

翌61(昭和36)年から発売された国産初のゴム底サッカーシューズの名は〈DL〉。続いて〈TOKYO〉というモデルも出した。

外観は手本にしたアディダスと瓜二つ。DLには黒地に白の2本ラインが、TOKYOには3本ラインが入っていた。これらは爆発的に売れ、問屋からもひっきりなしに大量注文が来るようになった。安田の経営規模は一気に拡大し、サッカーシューズ業界での地位を不動のものにした。

商標権や製法特許など、日本人のほとんどが気にしていなかった時代である。サッカーシューズのみならず様々な分野の製品が、欧米の一流品を真似して作られていた。

今でこそ独創性の象徴のように言われる日本発の国際的企業がいくつかあるが、彼らにしても臆面もなく模倣品を作っていた過去と無縁ではない。戦後の日本工業はパクリから出発し、それらの製品によって日本人の生活は底上げされていったのだ。

1964(昭和39)年の東京五輪と前後して、古参の安田の他にもミツナガ、オニツカ(現・アシックス)、モンブラン、タチカラ、ヤンガー、ウシトラ、美津濃(現・ミズノ)といったメーカーのサッカーシューズも登場するようになった。これらの靴の中には黒一色であったりオリジナルデザインのラインを持っているものもあったが、涼しい顔をして白い3本線をまとっているものが少なくなかった。

アディダス風の3本ライン、プーマ風の靴も

当の安田は68(昭和43)年から、プーマのラインをそっくりいただいたシューズも製造するようになっていた。

モデル名は〈4-2-4〉。ナイロンソールで、取り替え式のアルミスタッドを持っていた。ゴム底だけでなく、取り替えスタッド用のナイロンソールも、アッパーと固定スタッドソールを一体成型するインジェクション製法も、国産メーカーでの導入は安田が最初だった。

アディダス風3本ラインとともに、このプーマ風ラインの靴もその後の安田のカタログを10年ほど飾った。なんとこのモデルの雑誌広告には、誇らしげに「プーマライン」(!)の文字が躍っているのだ。