重春が独立前に修行していた靴屋は、紳士靴製造の片手間にサッカーシューズを作っていた。当時の日本に専門メーカーなどというものはなく、限られた靴屋が特注品として手作りしていたのである。

腕のいい職人であり、修業先ではサッカーシューズ担当だった重春が自らの店を構えると、彼に付いていた顧客がそのまま移ってきた。早稲田、慶応、立教、旧制中学では五中(後の小石川高校。現・小石川中等教育学校)、高師付属(現・筑波大学付属高校)、暁星などのサッカー部員たちである。

そして彼らが大学に進学したり、教員となったりして地方に散ると、その土地で自身が愛用するシューズを周囲に勧め、東京の安田まで注文が舞い込むようになった。

この頃のスタッド(靴底のスパイク)は、多層に重ねた硬い革を型抜きしたもの。それを革底に釘で打ち付けていた。うるさ型の客は少しでもダッシュやストップが効くよう、どこにスタッドを配置するかなどをこと細かく指示してきた。

よく店に顔を見せていた旧制東京高校のある部員もそんな一人で、年端もいかぬくせに熟練職人の仕事にあれこれと注文をつけていた。後に大阪フィルハーモニー交響楽団の音楽総監督となり、世界最高齢の指揮者として名を馳せた、朝比奈隆の若き日の姿である。

選手たちの憧れ…東京の「安田」、神戸の「佐藤」

第2次世界大戦後の日本の復興とともに、安田靴店は商品をほぼサッカーシューズ一本に絞る。平和が訪れた日本で、ますますサッカーが普及していくだろうと踏んだのだ。まだまだ町の靴屋の面影を残していたが、1953年には店を会社組織にし、名称も「株式会社安田」と改めた。

戦前から終戦直後にかけて、日本のサッカーシューズは安田と神戸の「佐藤」が双璧とされていたという。ただ東京の方が情報が集まりやすく、目の肥えた厳しい客に鍛えられている分、安田の靴に軍配を上げる選手が多かった。

だから関西の学生にとって、全日本大学選手権などで東京を訪れた際に安田へ立ち寄り憧れのシューズを購入するのは、大きな楽しみだった。当時の強豪、関西学院大のメンバーだった平木隆三(元日本代表、名古屋グランパス初代監督)もその一人である。

彼は安田を訪れる客の中でも、シューズ改良に関する熱心さでは群を抜いていた。のちにはくるぶしまでのブーツ型が主流だったアッパー(甲皮)を、海外選手の写真や野球のスパイクを参考にして日本でいち早く短靴型にさせたりと、様々な創意工夫を思いついては自身のシューズに反映させ、やがてそれが店のスタンダードになっていった。

街の靴店からサッカーシューズメーカーへ

1960(昭和35)年、体調を崩した重春に代わって長男の一男が勤め先を休職し、急場の家業を支えた。早大サッカー部OBでいすゞの社員であった一男は父の回復後もいすゞへは戻らず、そのビジネス感覚を生かして以降の安田の経営面を担当するようになる。

安田が家内制手工業的な靴店からサッカーシューズメーカーへと躍進を遂げた転機には、鎌田光夫(元日本代表、1968年メキシコ五輪銅メダルメンバー)が関わっている。