ジャイールには、これまた安田初のオリジナルラインが奢られていた。初のプロ選手契約も締結したことだし、もう海外メーカーのコピーでもあるまい、との声が社内で高まったからだ。

しかし出来上がってきたのは……〈プーマラインが稲妻型になった〉としか表現しようのない、なんとも奇天烈なデザインだった。

この「ジャイールライン」、カタログには彼の「鋭い切れ味のドリブルプレーをイメージした」と書かれているが、誰がどう見てもプーマの亜流感は否めなかった。

ブランドイメージを高めようとしたが…

しかも正式に契約書を交わし、イメージキャラクターとなったジャイルジーニョを日本に呼んで記者会見まで行ったにもかかわらず、当の本人が履いてくれなかった。

同じブラジル代表でも、ペレは律儀に世界中で自身の契約メーカーであるプーマを履いていたのに、国際的な知名度のないブランドということで軽く見ていたのか、単に性格がちゃらんぽらんというのか……どうもジャイルジーニョは、安田との契約を日本限定の小遣い稼ぎ程度にしか考えていなかったようなのである。安田の社員がサッカー雑誌に掲載されるブラジル代表戦の写真を目を凝らして見ても、ジャイルジーニョの足元に稲妻が走っていたことは一度としてなかった。

往年の安田の製品カタログ
資料提供=YASUDA
往年の安田の製品カタログ。安田はサッカーシューズだけでなく、野球のスパイクやラグビーシューズ、アメリカンフットボールシューズも手掛けていた時代がある。

これに懲りた安田は、ジャイルジーニョとの契約を75(昭和50)年いっぱいで打ち切る。しかしジャイールシリーズはその後も継続され、80(昭和55)年まで稲妻ラインのサッカーシューズが製造された。

75~84(昭和59)年の10年間、安田には〈ダイヤモンド・ウィルス〉というシリーズの野球用スパイクを作っていた時期がある。中でも77(昭和52)年、78(昭和53)年はプロ野球の日本ハムとチーム契約まで結んでいた。そのスパイクというのが、ジャイールラインだったのである。

チームカラーに合わせ、青地に白ラインと白地に青ラインの2パターンが提供された。当時の日ハムには高橋直樹、富田勝、ミッチェルらがいて、島田誠は売り出し中の若手。大沢親分の第1期監督時代であった。

シューズだけで1日1500万~2000万円を売り上げる

78(昭和53)年、新たな安田オリジナルラインが生まれた。

前進をイメージしてデザインされた、カーブを描く2本線。最初にこのラインが採用されたシューズの名が〈エクセル78〉であったことから、社内的には「エクセルライン」と呼ばれた。同年の安田のカタログには3本ライン、プーマライン、ジャイールライン、そしてエクセルラインと4種ものキャラクターラインが混在していて、誠に壮観である。

安田製品はいつの時代も、値段の割に品質が高いことで定評を得ていた。80年代初頭には、シューズだけで1日1500万~2000万円の売り上げがあったという。