商社の兼松江商(現・兼松)がアディダスのシューズの日本総販売代理店となるのは67(昭和42)年。同じく商社のリーベルマン・ウェルシュリー(現・コサ・リーベルマン)がプーマのシューズを日本に導入したのは72(昭和47)年。しかしそれ以前の60年代後半、ドイツ系商社経由でアディダスのサッカーシューズを輸入し、日本で一手に引き受けて販売していたのは安田だったのだ。

そしてプーマに至っては、安田は60年代後半から70年代中ごろまで、日本における総代理店となっていた。

「本家」に手が出せない中高生の味方に…

安田製品の広告に「プーマライン」のコピーを付けることなどまだかわいい部類で、サッカーマガジン70(昭和45)年6月号における安田の見開き広告など、右で本物のプーマの商品を、左で3本ラインやプーマラインが付いた自社商品を掲載しているのである。

右ページの〈ネッツァー・スーパー〉は1万1000円。左ページにある、ほとんど外観が同じの〈4-2-4〉は4600円。ギュンター・ネッツァーやエウゼビオに憧れながら、値段の高さや先輩からの視線恐さ、あるいは日本人特有の幅広甲高の足の持ち主であるがゆえ、泣く泣く安田で我慢した全国の中高生部員は数え切れない。

アディダスの取り扱いは兼松江商に取って代わられたが、リーベルマンが扱い始めてからも、70年代中ごろまで安田はプーマの総代理店だった。リーベルマンと別系統で輸入販売を行っていたからだ。そしてこの頃はまだ、安田がアディダスやプーマのラインを真似しても、本家からのクレームはなかった。

日本における商標権管理の甘さが、黙認されていた時代でもあった。そしてアディダスもプーマも、日本市場をまださほど重要視していなかった。

「ドイツの両巨人」が類似品を黙認したワケ

さらに、彼らが強く出られない理由があった。当時、サッカーシューズは使い捨てではなく、修理を重ねてボロボロになるまで履くものだった。

しかし日本市場に参入して日の浅い両ブランドの総販売代理店には、修理用の部品も器具も技術もなかった。それを引き受けていたのが、安田をはじめとする国産メーカーだったのだ。

アッパーの破れは自社の革をあてがえばいい。スタッド用の金具の交換にしても、国産メーカーはアディダスやプーマが使っているのと同じドイツ製の外注部品を付けていたから流用できた。縫製のほつれやソールのはがれ? 修理のうちにも入らない。

こうした対応を知っているから、ドイツの両巨人は自社のキャラクターラインを盗用されても大目に見ていたのである。

しかし日本における商標権管理が厳しくなり、代理店がシューズ修理に対応できるようになると、徐々にそれも容認されなくなっていった。

ただそれはもう少し先、80年前後まで待たねばならない。

初めてのプロ選手との契約

73(昭和48)年8月、安田はメキシコW杯でペレとともにブラジル優勝に貢献したドリブルの名手、ジャイルジーニョとアドバイザリー契約を結ぶ。ブランド知名度をさらに高めるための、安田初のプロ選手との契約だった。

そして翌74年には、彼をイメージした〈ジャイール〉というシリーズのシューズが発表される。その年のカタログの表紙を飾ったのももちろん、カナリア色の代表ユニフォームを着た彼の写真だった。