現在の「中国式デモクラシー」の原型は1000年前にさかのぼる

繆昌期(1562〜1626)の肖像画。無錫市の東林書院(https://wxdlsy.com)のホームページ記事より引用。東林書院は明末、政論の中心地だった。
繆昌期(1562〜1626)の肖像画。無錫市の東林書院のホームページ記事より引用。東林書院は明末、政論の中心地だった。

——中国哲学史』のなかでもうひとつ面白かったのが、明代後期の陽明学右派の思想家・繆昌期びゅうしょうきが提唱していた「公論」の思想です。愚夫愚婦ぐふぐふ、つまり知識人ではない一般庶民もみんなモノを考えていて公論を持つとした指摘は、当時の中国では非常に革新的でした。ただ、繆昌期はこの公論を取りまとめて政治に反映させるのは、知識人(士大夫したいふ)という限られた階層であるとも主張していたようです。

【中島】これは中国のデモクラシーを考えるうえでは示唆的な議論です。過去、日本の東洋史学者の内藤湖南(1866~1934)たちは、唐と宋で社会の仕組みがガラッと変わったとする「唐宋変革論」をとなえました。

「唐宋変革論」では、唐までの貴族制が宋以降は崩壊し、皇帝に権力と権威が集中するいっぽうで、ばらばらな個人が登場したとされます。国家と個人が直接結び合う、ある意味でデモクラティックな新しい社会が、中国では1000年前に出現していたわけです。繆昌期の議論は、そんな近世中国の社会において、どうやって民意を政治に反映させるかを説いたものです。

西洋と中国での「デモクラシー」の違い

——王朝時代の中国は政治体制としては、官僚制に支えられた皇帝の専制体制ですが、いっぽう一般庶民も「公論」を持っていますから、為政者は世論を気にして政治をする。世論をとりまとめて、現実の政治に反映させるのは士大夫の役割である。……こうした繆昌期の世界観は、”士大夫”を”共産党員”に置き換えれば、そのまま現代の中華人民共和国の体制と同じではないでしょうか。

内藤湖南(1866〜1934)。鹿角市先人顕彰館にて安田撮影。
内藤湖南(1866〜1934)。鹿角市先人顕彰館にて安田撮影。

【中島】フランスの政治思想家のトクヴィル(1805~1859)に、当時の新興国であるアメリカを視察した『アメリカのデモクラシー』という著書があります。日本思想史の渡辺浩先生によると、このときトクヴィルは、当時の中国のような「専制的なデモクラシー」を想定し、アメリカが将来それに陥らないようにと考えていたというのですね。

実はデモクラシーと専制主義は相反するものではなく、結びつく形もあります。宋代以降の中国は社会はある意味デモクラティック(平等で民主的)な社会なのですが、西洋的なリベラルデモクラシーとは違うデモクラシーなのです。中国ではそうした「民主主義」が、革命を経た現代でも続いているという見方も可能なわけです。

——王朝時代、地方官僚の評価は具体的な業績よりも「名声」で決まっていましたし、これは現代中国でも通じる部分があると感じます。そういえば内藤湖南も中国が意外なほど「輿論」(世論)に左右される国だと書いていました。

【中島】それこそ繆昌期や、明末清初の思想家・黄宗羲あたりが、中国のそのような政治体制を言語化しています。実は中国は、ある意味ですごくデモクラシーの国なのですが、ただしその形が西洋と大きく違う。近年、中国政府が「中国的民主」という概念を主張する様子は、欧米圏からは冷ややかに見られがちですが、中国自身はこうした歴史を踏まえて主張しているつもりではないでしょうか。