宗教絡みのビジネストラブルといえば、イスラム教とユダヤ教が圧倒的に多い。イスラムの場合は「聖典を冒涜した」という筋合いのトラブルがほとんどで、多国籍企業は少なからずきつい代償を支払っている。コーランの一節と見紛うようなデザインは、とにかく避けたほうが得策だろう。特に「炎」のデザインを描くときは要注意だ。

またユダヤの場合、宗教の問題というより、「ユダヤの陰謀」的な史観が大きな火種になる。筆を握る人種は、その手の話はアンタッチャブルにしておいたほうが身のためだ。

「宗教的感度」というのは宗教ならずとも必要なことで、それぞれの国家や民族で「心の琴線」とは真逆の「逆鱗」「怒線」に触れるポイントがある。その話題に触れると相手はエキサイトして関係がぶち壊しになってしまうのだ。

たとえば韓国は儒教の国だが、儒教を否定しても韓国人とは喧嘩にならない。儒教をつくった孔子は、日本以外の国では宗教家ではなく哲学者として捉えられていて、たとえ否定するような発言をしても、「あなたは何様のつもり?」と軽蔑されるだけ。しかし歴史問題で日本の立場を是とするようなことを言うと、「歪曲だ!」と烈火のごとく怒りだして収拾がつかなくなる。

「この国に来てこれだけは言ってはいけない」ということは結構あるので、よくよく注意すること。こうした感度を身につける一番の方法は、その土地で古くから暮らしている人と友人になって、事細かく教わるしかない。

最後に一点。海外で「あなたの宗教は何ですか」と問われたときに、「自分は無神論者です」と答える日本人は少なくないが、これは言わないほうがいい。無神論者は英語で「Atheist」だが、外国人にとって「無神論者」ほど違和感のある語彙はない。「神を信じていない」は、イコール「自分しか信じていない」利己的な奴となり、それは「自制心が利かない」「一人にしておくと(神が見てないと思って)何をするかわからない」に等しく、神様を戴くキリスト教やイスラム教的世界観では、何をやらかすかわからない危険人物と見なされるからだ。まずビジネスの相手はしてもらえない。

私自身も特に宗教はないが、いつもこう言っている。「日本人は昔から800万の神といって、石にも山にも自然界のすべてに神が宿ると信じている。私もそう思っています。両親は仏教徒で、私自身は忙しくてあまりお寺には行っていませんが、死んだらブッディスト・テンプルで祭られ葬られるでしょう」と。こう言えば相手も安心するのだ。

※すべて雑誌掲載当時

(小川 剛=構成 AP/AFLO=写真)