台湾政府系シンクタンクでの顧問経験

筆者は台湾政府経済部(日本の経済産業省に相当)系のシンクタンク「財団法人 資訊工業策進会(Institute for Information Industry、略称III)」で8年ほど顧問を務めた。その間、台湾が国策としていかに経済力を強め国際的地位を築いてきたか、国と産官学がどのように連携し、産業や企業を育成していったのかを台湾側から垣間見てきた。その経験を踏まえながら、今日の日本と台湾の差をもたらした要因はどこにあったのかを考えてみたい。

台湾政府が自国の半導体産業育成のためにアメリカからヘッドハントし、後にTSMCの創業者となったモリス・チャン(張忠謀)氏。
写真=ロイター/アフロ
台湾政府が自国の半導体産業育成のためにアメリカからヘッドハントし、後にTSMCの創業者となったモリス・チャン(張忠謀)氏。

1980年代、日本は半導体の母国であるアメリカをも凌駕し、日本製の「日の丸半導体」が世界をリードしていた。当時の中核製品であったDynamic RAM(DRAM)メモリにおいて、世界シェアの上位5社はすべて日本企業だった(NEC、日立、東芝、富士通、三菱電機)。日本が技術大国、製造立国として世界から認知されていた、『ジャパン・アズ・ナンバーワン』(エズラ・ヴォーゲル)という時代だった。

「最終消費財」にばかり目が向いていた日本メーカー

しかし、日本は80年代の半導体技術での優位性を活かせず、「ものづくり大国」としての地位はすっかり過去のものとなってしまった。なぜごく短期間に、日本の半導体業界はこのように落ちぶれてしまったのか。

第一の要因は、各社が「最終消費財」の生産ばかりを重視し、半導体を軽視したことだ。当時の日本企業は、パソコン、通信機器、テレビなどの家電といった最終消費財を製造販売することに固執し、半導体はその部品の一つぐらいに認識していた。そこで安い外国産半導体に頼ることにした結果、国内での半導体製造は縮小し、後にライバルとなる韓国のサムスンや台湾のファブレス企業が日本企業のお金で育つことになった。