こどもの権利が書かれていない教育基本法
さらに、これからも文部科学省が関与することになる幼稚園やいじめ対策について、こども中心になるのか、私は疑問を感じてしまいます。というのも、みなさんは、教育基本法のなかにこどもの人権が明記されていないのをご存知でしょうか? 教育の目的や親がこどもに教育を受けさせる義務があると書かれていますが、“こどもが権利の主体である”とは書かれていません。日本の法律のなかで明記されているのは、児童福祉法のみ(※)です。
このことが、学校で発達に課題のある児童への合理的配慮が進まないことや、いまだに頭髪規制などの意味不明な校則があること、学校に教科書などを置いていてはだめで、毎日持って帰らないといけなかったりすること、バカたかい制服を強制的に買わされるなど、多くの問題が放置されていることにつながっているのではと感じます。
保育園や児童発達支援事業を通じて、保護者からの声や小学校とのやりとりを直接行っている当事者として、こどもの権利の重さの違いを感じる場面が多く、文科省が管轄する幼稚園や学校のいじめ対策がこども家庭庁に移管されないことには正直なところ、懸念を抱いてしまうのです。
そもそも日本には、こどもの権利を守るための「こども基本法」がありません。基本法とは、国の制度や政策の基本方針となる法律です。障害者の権利を守るための「障害者基本法」、女性の権利を守るための「男女共同参画社会基本法」にあたる法律がないのです。このことが、こども政策の遅れにつながっているという指摘もあります。こどものための省庁を創設するのなら、そのまえに「こども基本法」の制定もセットで議論してほしいと思います。
※児童福祉法 第一条 全て児童は、児童の権利に関する条約の精神にのつとり、適切に養育されること、その生活を保障されること、愛され、保護されること、その心身の健やかな成長及び発達並びにその自立が図られることその他の福祉を等しく保障される権利を有する。
子育ての社会化が後退する
心がざわつくもう一つの原因が、もともと「こども庁」という名前だったところに「家庭」の二文字が入ったことです。子育ての社会化が、後退するという懸念を抱いてしまいます。
「子育て罰(Child penalty)」という言葉を最近よく耳にします。これは母親がこどもを産むことで、生涯賃金が下がることや、社会が子育てに不寛容であるために、こどもを持たない母親に比べ負担ばかりが増えることを表しています。
電車の中でベビーカーを蹴られたり、泣いているこどもがいたら舌打ちをする人など……実際、私もこどもが小さい頃に、こどもを抱っこしながら少し混んでいる電車に乗ったときに、こどもが泣き出し、サラリーマン風の男性に舌打ちをされたことがあります。成人男性に対しても舌打ちをしてくる社会です。これが力の弱い女性であれば、もっと肩身が狭い思いをしているのではないでしょうか。ちなみに、私はこのとき、「舌打ちしてんじゃねーよ」と思わず言い返してしまいましたが、何も言い返してきませんでしたよ。ぜひ女性の皆様、泣き寝入りせずに堂々としていましょう!
さて、話がずれてしまいましたが、日本はこの子育て罰の割合が非常に高い、子育て世帯に厳しい社会だと感じます。それは、7人に1人と言われるこどもの貧困問題などが先進国の中でも目立って大きいことからもわかります。
身なりはそれなりだが、実際は家族旅行に行ったことがない、修学旅行の積立ができない、もっとひどいと給食しか1日の食事がないということがかなりあることを、PTAを取りまとめている代表の方や学校関係者から聞きます。学習塾や習い事へ通わせるお金がないため、収入格差がそのまま経験格差、学力格差につながり、生涯年収の差も広がる一方です。
そのために児童手当があるという方もいると思いますが、この児童手当には所得制限があります(2022年10月支給分から世帯主の年収が1200万円以上だと廃止)。高所得者層には手当は支給しないという方針は一見妥当だと感じる方が多いと思いますが、ここにも、子育てに関するお金は親が出して当たり前という思想が見え隠れします。そもそも世帯主の年収が1200万円というのは、税金を払いながら、そして忙しい生活の中で、わが子に塾や習い事に行かせようとするため、実際は時間のゆとりも貯金も少ない家庭が多いのが現実です。
日本がここまで子育て世帯に不寛容なのは、「親の無償の愛が大切で、家庭こそが子育ての中心であり、大切だという昭和的な価値観」を押し付けられてきた結果だと感じます。今回、「家庭」という名称が入ったことで、まだそれが続くように思われて落胆してしまったのです(名前だけで実際には変わっていくのであれば、嬉しいのですが)。