第2の山はジョージアで発生した。ジョージアでは、サアカシュヴィリ大統領が2004年から2013年まで大統領の職務を務めた(※)。同大統領は明確に親欧米反ロシアの立場をとり、民主的な選挙の結果選ばれた大統領として欧米の支持を受けた。しかし2008年8月、南オセチア自治州に派兵した際、同州の独立を支持するロシアが戦闘に参加し、「8月戦争」として短期の軍事衝突が発生した。欧米による保護を求めた大統領は、NATOの加盟を求め、08年4月NATOは実施時期は未定ながらグルジアの加盟に同意したのである。
※2007年末に短期間大統領職に就いていない。
これに対し、プーチン首相(当時)は、ルモンド紙インタビューに「われわれはNATOの拡大に原則反対である。ソ連邦はもはや存在せず、何の脅威のためにこの組織を存続させるのか」という見解を表明した。今ジョージアのNATO加盟交渉は完全に頓挫している。
ウクライナでついに矛盾が“爆発”
今回のウクライナ問題は第3の激震というべきであろう。スラブの兄弟国としてのロシアとウクライナは長く複雑な歴史を抱えている。ロシア発祥の地がキエフ公国であるように両国は同根の歴史を共有している。他方において、東部ウクライナは、ロシアからの移民によって構成され言語も生活習慣もロシアのままであるのに対し、リヴィウを中心とする西部は長くポーランドの影響下にあり、欧州との親和性を有していた。
第1次世界大戦・ロシア革命・第2次世界大戦という激動の歴史の下で、ウクライナ全体は赤軍の支配するところとなり、これに反発して戦った西部ウクライナのグループの一部はアメリカとカナダに移民、それぞれの国内で少数ながら強いアイデンティティを持つグループとして生き続けた。
1991年12月、ソ連邦の分裂という大ドラマも、スラブ兄弟国のウクライナが引き金を引く一カ国となった(ベロヴェーシ合意)。兄弟国家として分離独立を想定しない形で作られてきた人為的な国境線が、そのままの国境となった。
その矛盾が爆発したのが、2014年2月のマイダン動乱だった。親ロ派のヤヌーコビッチ政権のEUとの関係強化が遅いことに怒った親欧州派の起こした動乱により、ヤヌーコビッチ政権は崩壊した。プーチンは一気呵成に民族の記憶の中に刻み込まれているクリミアを国民投票によりロシア領に編入、オバマ大統領指導下の欧米との決定的な対立が発生したわけである。