西側に拒絶されたことへの悲哀と怒り

バイデン大統領とプーチン大統領は、12月7日、緊張の高まるウクライナ情勢を解決するためのバーチャルな首脳会談を約2時間行った。双方が提案を交換し合いそれを検討中という形で目前の事態はほんのわずかだけ静かになったが、本質的な相互理解にはほど遠い。

ロシアのウラジーミル・プーチン大統領(=2021年11月4日、ウクライナ南部クリミア半島セバストポリ)
写真=AFP/時事通信フォト
ロシアのウラジーミル・プーチン大統領(=2021年11月4日、ウクライナ南部クリミア半島セバストポリ)

問題の根本には、自壊によって消滅したソ連邦の継承国ロシアを、ヨーロッパが決して自らの仲間として迎え入れなかったことに対するロシアの深い悲哀と怒りがある。この問題が最も峻烈しゅんれつな形で噴出しているのが、スラブとしての兄弟国家ウクライナとロシアの関係である。

問題の遠因は、ペレストロイカ政策の推進により、西側諸国と共通の方向性をとり始めたゴルバチョフが、1987年から1989年にかけて「欧州共通の家」概念を提起したころにさかのぼる。要するに、価値を共有する国になりつつあるのだから、欧州を分断していたさまざまな組織はもうやめようではないかということである。分断の組織とは、ワルシャワ条約機構とNATOであった。

解体するどころか旧ソ連邦国からも「入れてほしい」

1991年12月ソ連邦が解体され、ロシア連邦が成立した。新生ロシアは民主主義と市場原理を基礎とする国になった。ワルシャワ条約機構は、91年3月に機構として機能を停止、7月には早々と廃止された。ロシアとしては、一発の弾丸が飛んでこなくても、欧州分断のもとになっていたワルシャワ条約機構を廃止したのだから、その対抗組織であるNATOはなくなると期待したわけである。

しかしここで「待った」がかかった。これまでワルシャワ条約に基づく軍隊に攻め込まれ散々痛い目を見てきた旧東欧諸国やソ連邦の中でもロシアに対する恐怖心を明確に持っていたバルト三国などが、「一回政体が変わったからといって信用できない。NATOは残すだけではなく、自分たちをそこに入れてほしい」と言い出したのである。これには一定の説得力があった。しかしロシアとしては、冷戦の遺物たる反ロシア機構が東方に拡大し国境線に迫ってくることなど受け入れられるわけがなかった。

この時調整の役割を果たしたのがアメリカである。その任に当たったのが1993年1月から8年間大統領職についたクリントンであり、この間対ロ政策のシナリオを描いたのがロシア専門のジャーナリストでクリントンの学生時代からの親友ストローブ・タルボットだった。タルボットは日本の対ソ連政策に関心をもち、当時外務省のソ連課長だった筆者とも親しかった。