「安全保障」が守ろうとしているもの
筆者は、政治学徒としては主に対外関係や安全保障を考究や論評の対象としてきた。筆者が本稿で披露した議論は、対外関係や安全保障には直接の関わりを持たない畑違いのものであるかもしれない。ただし、戦後国際政治学の世界に多大な足跡を刻んだ高坂正堯(国際政治学者)が、四半世紀前に遺稿の中で次のような記述を残した事実は、現今でも確認されるに値しよう。
「安全保障は決して人生とか財産とか領土といったものに還元されはしない。日本人を日本人たらしめ、日本を日本たらしめている諸制度、諸慣習、そして常識の体系を守ることが安全保障の目標なのである」。
高坂は、「国民の生命・身体・財産を守る」と一般に説明される安全保障の目標が、「その国をその国たらしめている諸制度、諸慣習、常識の体系を守る」というものであると指摘したのである。
名誉を与えることで示される国の理念
本稿で指摘した「名誉の階梯」とは、それぞれの国々の「諸制度、諸慣習、常識の体系」の護持に対する尽力や貢献の度合いを反映している。逆にいえば、「どのような人々に名誉を与えるか」という問いは、それぞれの国々で護持されるべき「諸制度、諸慣習、常識の体系」の中身に結び付いているのである。
米国ならば、その「諸制度、諸慣習、常識の体系」の根幹を成すのは、自由や民主主義に絡む「建国の理念」であろうし、英国ならば、それを反映しているのは、王室や国教会を頂点とする「英国の国制」であろう。フランスならば、それは、フランス語に代表されるフランス文化や「革命の理念」になろう。
それならば、日本において護持されるべき「諸制度、諸慣習、常識の体系」とは、何を指すのか。筆者は、それが日本語に代表される日本文化であり、天皇陛下を推戴する立憲君主国家としての「日本の国制」であると自明のように考えているけれども、皇室制度に絡む昨今の議論の様相は、そのことについての合意が曖昧になっている事情を示唆している。
そして、この「何を護持すべきか」についての合意が曖昧になっている現状にこそ、令和の御代に入った日本の危機の本質がある。「何を護持すべきか」が曖昧なままに構想された安全保障政策が「砂上の楼閣」の類に過ぎないことを思えば、それは、なおさらのことである。〈文中、敬称略〉