日本政府から国民栄誉賞の授賞を打診されたが、「まだ早いので」との理由で断ったとされる大谷選手(2021年10月3日のエンゼルス対マリナーズ戦にて)
写真=AP/アフロ
日本政府から国民栄誉賞の授賞を打診されたが、「まだ早いので」との理由で断ったとされる大谷選手(2021年10月3日のエンゼルス対マリナーズ戦にて)

『セレブ』が跋扈し、『エリート』が消滅した日本

現今の日本に出現しているものの一つは、「『セレブ』が跋扈し、『エリート』が消滅した」風景である。

筆者は、先にプレジデントオンラインに寄せた論稿中、ドナルド・J・トランプ(前米国大統領)とコリン・L・パウエル(元米国国務長官)を対比させた上で、「セレブ」と「エリート」の違いを指摘した。

「セレブ」とは、富や才能、社会的立場を含む「恵まれた境涯」が専ら己のためだけにあるかのように振る舞っている意味において、結局のところは、「自分が可愛い人々」なのである。片や、「エリート」とは、自ら仕える高い「価値」を持ち、それぞれの社会における「真善美」の基準に沿って社会に規範を示す人々のことである。前に触れた自らの「恵まれた境涯きょうがい」によって公益に貢献できると考えるのが、「エリート」の「エリート」たる所以なのである。

「『セレブ』の跋扈と『エリート』の消滅」の風景が暗示するのは、日本における価値意識の侵食である。それは、日本社会全体に静かに「害毒」を行き渡らせるものになっている。そして、それは、平成期を通じて明白に現れた「『経済大国・日本』の凋落」の風景よりも、憂慮されるべきものであろう。

「社会に規範を示す」という役割

後世、令和初期の日本の世相を語る際に確実に言及されるのは、小室圭・真子夫妻の結婚であろう。日本では、社会における「真善美」の基準を体現しつつ、「社会に規範を示す」役割の中核に位置するのが、天皇陛下を初めとする皇族の方々である。小室夫妻の結婚が国民一致の祝意に包まれるものにならなかったのは、彼らの結婚に至る経緯が「社会に規範を示す」皇族の立場に照らし合わせて誠に疑義の多いものであったという事情に因っている。彼らの振る舞いは、結局のところは、「セレブ」、即ち「自分が可愛い人々」の類のものであると世に印象付けられたのである。

無論、小室夫妻の動静は、事の本質ではない。「自ら仕える高い『価値』を持ち、それぞれの社会における『真善美』の基準に沿って社会に規範を示す」役割が実質上、皇族の方々に押し付けられ、その役割を補完する「エリート」たる人々が社会の中で適宜、位置付けられていないということにこそ、事の本質がある。