「軽度のうつ病」から「うつ病」に診断が変わった

無職になった和泉さんは、「このままではダメだ!」と思い、社会とのつながりを求めて8月からB型就労継続支援所で働き、人間関係に対する苦手意識を少しずつ克服していこうと考えている。

腹痛で入院した父親は、コロナ禍で面会がまったくできなかったこともあり、認知機能が急激に衰えた。失語症の症状も進み、「おーい!」と呼んだはいいが、「あれ……? (言葉が)出てこん……」と言って黙ってしまうことも頻繁に。

1カ月半ほどで退院した父親は、要介護4に介護度が上がった。排便や排尿の失敗もさらに増え、和泉さんが後始末をする度に、父親は無言のまま、悲しそうな、申し訳なさそうな表情をした。

和泉さんは、2012年から月1で通院している心療内科に行くと、「軽度のうつ病」から「うつ病」に診断が変わった。

主治医は、「介護疲れでしょう。きみの場合、とても長い期間お父さんを介護していますから……」と言った。

高校卒業から30歳になるまでの間、職場をいくつもわたり歩き、細々とした収入を得ながら父親の介護をしてきた和泉さんは、いまこう話す。

「急に排泄の失敗が増えて、その度に父は申し訳なさそうな顔をするのですが、僕は時々カッとなり、叩いてしまうこともあります。内心、『早く死んでくれないかな』『父ちゃんさえいなければ、今頃恋人もいたかもしれんのに』と思うこともあります。つるんでいた仲間が都会へ出ていき、結婚したとか、子どもができたとかの知らせを聞く度に、『自分は何をしているんだろう……』と、虚しくなります」

そんなモヤモヤしたどす黒い気持ちの一方で、「4トン近い山鉾を担いでいた父の姿は、今でも忘れられません」と父親を尊敬し誇りに思いながら、「父ちゃん、いつまでも元気で長生きしてほしいのに……なんでや!」と、もがき苦しむ。

秩父の夜のパレード
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「高校1年の頃、当時は自分がグレて遊び歩いていた後ろめたさもあったので、父が脳梗塞になったことがきっかけで、『こうなった以上は、僕が面倒を見るしかない!』と腹をくくりましたが、(離婚して、他の男性と再婚した)母のことは今でも許せず、ずっと恨み続けています」

父親が脳梗塞になってから、母親は月に1度、1泊2日で介護を手伝いに来てくれていたが、たびたび母親と和泉さんでケンカになり、それ以降、泊りがけの介護は断っている。

「母は、僕と父を置いて家を出たくせに、今さら戻ってきて、父の入所のこととか介護のことなどに口を出してくるんです。さすがにムカついて、『話がややこしくなるだろ! ふざけるな!』と言うと、ケンカになります。父は母とよりを戻したがっていましたが、母は再婚相手とうまくいっているようで、その気はありませんでした」

それでもやはり母親は、拭いきれない罪悪感があるようだ。介護を手伝いに来る度に、「私があんたに苦労かけた。私だけ家を出て、13年間も一人で介護をさせて悪いと思ってる。毎日家で泣いてる。あんたのことを考えない日はないからね」と言い続ける。

和泉さんは、母親にどんな形で父親の介護をサポートしてもらうのがベストなのか考えるとともに、要介護4になってから申し込んだ8施設の空きを、今か今かと待ちわびている。