日本の学校教育は行き詰っています。教育学者の汐見稔幸さんは、日本では若者が夢を見つけられず、新しい仕事や産業をつくり出す力を持った人材を育てられていないと指摘します。なぜ、このような状況に陥ってしまったのでしょうか――。

※本稿は、汐見稔幸『教えから学びへ 教育にとって一番大切なこと』(河出新書)の一部を再編集したものです。

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建前は「国家のため」、本音は……

学びや教育の目的は、自分が生きている世界や社会の課題を知り、その先に夢や希望を見出すことでもあります。

最も大事な子どもの「学び」は、自分が生きている世界や社会、つまり日常の中にあります。その子どもが体験する日常生活のありとあらゆることが学びの対象です。

しかし、日本の近代の学校教育では、あまりこのことを重視してきませんでした。

その一番の原因は、近代化する世界から日本が大きく遅れていることに気づき、慌てて近代化を目指したことにあるでしょう。

「何のために学ぶのか」「学びとは何か」を問う余裕もなく、「学ぶ」目的は、建前は「国家のため」、本音は「立身出世のため」になってしまったのです。その経緯について少し押さえておきましょう。

銀行の力に驚いた渋沢栄一

江戸時代の終わり、渋沢栄一(1840-1931)が1867年のパリ万国博覧会に幕府使節団として派遣されました。彼は、まだ工事中だったスエズ運河を見て、その壮大な事業が国によるものではなく、民間の資金を募って行われていたことにとても驚きます。

それを成り立たせていたのが銀行のシステムでした。銀行がお金を集めて会社の資金としてそれを貸し出し、さらにその利益を銀行が集め、大きな事業が可能になることを渋沢は知りました。そして、それを「合本主義」と名付けて日本に導入しました。その結果、八幡製鉄所や富岡製糸場などの国営だけでなく、渋沢栄一や福沢諭吉(1835-1901)らが、民間の会社をつくるなど、産業を起こすことが促進しました。

日本は後発国でしたから、鹿鳴館に代表されるような「欧化政策」を必死に進めました。明治政府による神仏分離令が廃仏毀釈へと発展してしまったのもこの頃です。江戸時代の日本を否定し、日本の文化を価値のないものとして壊し、西欧のものを取り入れることが当時の日本が目指す近代化でした。