跡継ぎとなった敬三は素晴らしい実業家になり教育事業も成功
じつはこの本が出版されたのは、明治45年(1912)のことである。ちょうど篤二がスキャンダルを起こした後だ。それを踏まえて読んでみると、何だか篤二に対するメッセージ、息子への最後の期待のようにも思えてくるから不思議である。では、その後、篤二はどうなったのだろうか。
渋沢秀雄によれば、「父の事業や家督の相続から解放された篤二は、長男敬三が情理備わった人なので後顧の憂いはなかった。彼は後年宗家から立派な家屋敷と月々の仕送りをもらって、思う女と安穏に暮らしていた。
私もたびたび遊びにいったが、長兄は好きなセッターの優良種を数匹飼ったり、気の合った知友を夕食に招いたり、生活を楽しむことだけが商売みたいな、世にも気楽な一生を送った」(『父 渋沢栄一』)と語っている。
残念ながら栄一が期待したように、家から出ても篤二が奮起することはなかった。むしろ、与えられた財産を使いながら、気ままに人生を送ったのである。いずれにせよ、栄一は後継者の育成に失敗したわけだが、廃嫡は篤二にとって幸いだったことがわかる。
というのは、栄一の跡継ぎになった敬三は、素晴らしい実業家となり、さらに学者(民俗学)としても多くの業績を残したからだ。そういった意味では、栄一にとっても災いが転じて福となったわけである。
さらに付け加えるなら、教育事業にかける情熱は岩崎弥太郎に負けていない。むしろ凌駕しているといってよい。主なものをあげれば、実業教育として商法講習所(現・一橋大学)や大倉商業学校(現・東京経済大学)、女子教育として東京女学館や日本女子大学校(現・日本女子大学)などの創立に深く関わった。このほか、高千穂高等商業学校(現・高千穂大学)や早稲田大学、名古屋商業学校など多くの学校を支援したのである。