ついに篤二の廃嫡を決断する

そんな篤二が、明治44年(1911)5月にある芸者にぞっこんとなり、妻を家から出し、その芸者を家に引き入れると言い出したのである。

この醜聞は新聞にも載ってしまい、栄一は苦汁の選択を迫られる。そして栄一は結局、篤二を廃嫡することに決めたのである。大正2年(1913)1月10日に渋沢家は東京地裁に「身体繊弱」という理由で篤二の廃嫡申請を提出、正式に廃嫡が決まった。栄一にとっては忸怩じくじたる思いだったろう。なお、栄一の跡継ぎは、篤二の嫡男・敬三となった。

だが、父の栄一には息子・篤二の所業を真っ向から責める資格はなかった。栄一自身も女性にはだらしなかったからだ。ただ、もちろんそれは、現代から見ての話である。伊藤博文にしても、かつての上司・井上馨にしても、さらにライバルの岩崎弥太郎にしても、芸者と遊び、遊郭に出入りし、妾を持っていた。

金や権力を有する者にとって、それはごく当たり前であったし、男としての甲斐性といわれた時代であった。だから栄一もたびたび芸者と遊び、妾も複数かかえていた。ただ、問題なのは、そんな彼が世間に向けては、道徳を声高に唱えていたことである。几帳面な栄一は毎日必ず日記をつけており、妾宅に行くときは「一友人」を問うと記していた。

屋敷の女中にも手を出していた渋沢栄一

当時、東京の人びとは妾のことをフランス語をもじってアミイと呼んでいた。こうした父の妾(アミイ)の存在を知った四男の秀雄は、「社会的な活動は則天去私に近かったろうが、品行の点では青少年の尊敬を裏切るものがあった」と述べ、「中学の2、3年ごろは私も父の一友人に憤慨したが、」「一生を通じて父のアミイを苦にしたのは母である。

その友人には芸者もいたし、家に使っている女中もいた。現に『一友人』の子の一人は一高のとき私と同級になり、現在もなお半分他人のような、半分兄弟のような交際をつづけている」(『父 渋沢栄一』)と告白している。

栄一は屋敷の女中にも手を出しており、関係を結んだ女性の数はわからないくらい多かったといわれる。いわゆる隠し子も相当数いたようだが、まさにその名のとおり隠し子なので、総数はわからない。

ただ、「英雄色を好む」という言葉があるように、絶大なエネルギーである性欲がそのまま他の活動に転化されるのは、歴史が証明している。ともあれ、篤二の色好みは、遺伝の為せるわざともいえなくないわけだ。そんな栄一は、富豪の子息について、次のような文章を残している。

「富豪の子と生まれたものの多くは、親の遺した財産を当てにして、自分は働かずとも栄耀栄華をしておればよいと心得るのは、大いなる誤解である。その親が如何に大資産を所有しておるにもせよ、自己はどこまでも自己であるという考えを持ち、自分だけの智恵を磨き、社会に立ち得らるるよう心掛けねばならぬ。しかし子供がそういう心掛けを出したからとて、その親たるものも家からは一文も出さぬから、如何にでもして衣食して出よといってはおけない。第一に親の義務として学問をさせてやり、社会に立って恥ずかしからぬ行動の取れるだけにしてやらねばならぬ。また相当な地位を支えて、よい加減に困難のない生活をして出られるほどの財産も与えてやらねばなるまい。これは親の情というものであろうと思う。これだけにしてもらえば、その子たるものも、もはや親の財産なぞに目をくれておる必要はない。どれだけでも自己の腕次第に活動ができる。もしそういう子が富豪の家に生まれたとすれば、これ実に余が主義に合致したる理想的人物である」(『青淵百話・乾』)。