秀忠の母として

将軍家康は、慶長10(1605)年、早々と将軍職を息子の徳川秀忠に譲ります。秀忠は幼い時に、ねねと秀吉の養女のお姫(織田信雄の娘)との婚姻が組まれており、そのお姫が7歳で夭折したため、茶々の妹で、ねねと秀吉との養女になっていた江(ごう)と結婚しました。お姫亡き後、もうひとり養女をとり、秀吉とねねは、徳川家とのつながりを強固なものにしていたのです。

用意周到のねねにとって、徳川が天下を取ることにはなんの問題もありませんでした。秀忠の義理母になり、将軍の母として暮らす準備は、とうの昔にできていたのです。

慶長20(1615)年、旧暦5月8日。徳川は陣を取り、大坂城へ一気に攻撃を仕掛けます。徳川が豊臣を攻撃した大坂夏の陣です。みるみるうちに、大坂城には、大きな火の手があがりました。豊臣側の茶々も秀頼も、この戦いに破れ、命を落とします。ねねは、京都で大坂落城との情報を聞き、「大坂の一件は、なんとも申し上げる言葉もございません」と記した手紙を伊達政宗に送りました。

さらに、大坂の陣の後、京都に立ち寄った徳川秀忠に、ねねは贈り物を送ります。ねねは、豊臣側でも徳川側でもなく「高台院」として、京都では影響力と財力のある人物になっていました。また、そのような特別な立場を自認するかのように、「京都で何か自分にできることがあれば承ります」と秀忠に表明しています。巧みな縁組によって秀頼と同様、秀忠にとってもねねは「母」だったのです。

唯一無二の存在

振り返ると、ねねと秀吉の養女として育てられた女児たちは、後々、ねねの存在を強めることになりました。たとえば、娘の前子は皇后として12人の子供を産みました。ねねは天皇の義理母になっただけでなく、後陽成天皇を継いで即位した後水尾天皇の祖母という関係になりました。ねねは豊臣と徳川と天皇家の母として、祖母として、重要な立場を占めていきました。

北川 智子『日本史を動かした女性たち』(ポプラ社)
北川 智子『日本史を動かした女性たち』(ポプラ社)

これまで、ねねは豊臣側の人間であり、豊臣家の存続に加担するのが当然、あるいは、豊臣を裏切って徳川の肩を持った裏切り者とされてきたこともありました。しかし、豊臣家の一員である以上に名だたる武将たちや天皇の「母」として、大坂や京都で、唯一無二の存在として生きました。実子がいないことを養子縁組で戦略的に捉え、一夫多妻、結婚と養子のシステムをうまく利用して、血統のない自分の子供を持つよりも恵まれた地位に自らを置き続けたのです。ねねの人生は、秀吉によってのみ守られてきたわけではありません。ねねは母として、秀吉没後も揺るがない地位を保ち、影響力のある人物として余生を過ごしました。

ねねのほか、細川ガラシャなど、天下統一期を生きた女性にスポットライトを当てることで、これまでの歴史の常識を覆す資料がたくさん見つかっています。女性たちの強い信念があふれる『日本史を動かした女性たち』。ぜひ、ご一読ください。

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